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方法論の困難

実は昨日は読みながら慌しく記事を書いていましたが、読み終えたところで改めて『羽月莉音の帝国』最終巻につきまして。
うん、建国し世界革命に挑むという途方もないスケールの話を上手くまとめましたね。
わずか5人での建国革命がすっかり成功してしまうというのも少々興ざめな気はしますし(今までこれだけスケールで飛ばしてきて、今更な感はありますが)、新興国家の要人としてさらに世界革命を導く立場になってしまえば、その先も気になるところですが、そんな中いい落としどころだったのではないかと。ちゃんと救いもありで。詳しくネタバレはしませんが。

新しい世界経済システムについてはさすがに詳しい記述はありませんが(管理通貨制ではあると語られているのと、序盤の巻で莉音がマイナス金利的な考えを語っていたというくらいです)

今まではすべて巳継の一人称で語ってきた(それなりに複雑な情勢や多くの人物を盛り込みつつ、読みやすくてスピード感溢れる作品たることを可能にしていた一つの要因でしょう)本作ですが、終章~エピローグでは別の語り手が登場します(これも定番の手法の一つですが)。
特に、第5章で日本国総理大臣・大原英士「本当に権力を担うとはどういうことか」という問いに直面しつつ、革命部を思い遣る展開は何ともいえない味わいがあります。

 驚いた。莫大な富が裏付けとなって、初めて権力を行使できると思っていた。それなのに……必要だと思っていたものを、誰からも求められなかった。望めば、権力はこんなにも近くにあったなんて。初めて俺は、本当の権力というものの正体を覗き見た気がした。
 [……]
 本当の権力を担うとは、かくも重大な決断を、朝起きて顔を洗うがごとく、ごくごく自然なこととしてやらなくてはならない。
 (至道流星『羽月莉音の帝国』10巻、小学館、2012、pp.268-269)


ライトノベルは中高生が読むものという前提(実態はさておき)から、主人公も中高生であるのが定番とされ、本作もそれに従っているのですが(ストーリー上はほとんど必要ないようなものですが、「高校の部活から建国を目指す」というのは無茶さを極限まで進めたポイントではあります)、サブキャラの大人たちがいい味を出していました。一時的にメインになってもいいですね。これが続くともうライトノベルだか何だか怪しくなってきますが。

ところで、私はまだほとんど検討していませんが、マイナス金利というのも、可能性として論じられている話ではあるようです。

貨幣進化論―「成長なき時代」の通貨システム (新潮選書)貨幣進化論―「成長なき時代」の通貨システム (新潮選書)
(2010/09)
岩村 充

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 ~~~

話は変わって、こんなものを目にしました。

巨大娘研究~サブカルチャー批評の終焉と再生~ (サンワコミックス) (SANWA COMICS No.)巨大娘研究~サブカルチャー批評の終焉と再生~ (サンワコミックス) (SANWA COMICS No.)
(2012/02/17)
鳥山 仁

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見ての通り、「巨大娘」、つまり相対的に巨大な女の子が登場する作品を扱った一冊ですね(相対的に、というのは、本書中で説明されている通り、女の子が巨大化する場合と、男の方が小さくなる場合があるからです)。
漫画、アニメ、映画、小説等各ジャンルに当たって、見付かる限りの作品を網羅的に挙げており、一作品に費やされているのは0.5~1頁ながら、画像のあるものはその引用付きで内容を的確に説明しています。

気になるのは、著者の一人である鳥山仁氏による序文が掲げる、批評に対する考え方です。
氏はまず、現行のサブカルチャー批評を以下のように批判します。

[……]何かの拍子に嵯峨氏が某サブカル系評論家の文章を私に提示して、「これをどう思います?」と尋ねてきたのである。嵯峨氏が持ってきたこの批評家氏の文章は「本当に雑誌で連載していたの?」と目を疑いたくなるほど酷い代物だった。
 何故なら、その批評が娯楽作品を対象としているにもかかわらず、「面白さ」についての論理的な説明が一切なかったからだ。メジャーだろうがマイナーだろうが、娯楽作品は人を愉しませ(サービスの提供)、その対価を受け取るという循環によって商売として成立している。そして、娯楽作品に対する批評が商業的に成立するためには、それらソフト群のクオリティをコントロールする役割を果たす必要がある。つまり「この作品はこういう点が面白い」あるいは「この作品はこういう点が詰まらない」という批評を論理的にしなければ、少なくとも商業的に批評活動が成立しないはずなのだ。
 ところが、その批評には「面白い」という単語が1つも出てこなかった。その代わりに連呼されていたのが「新しい」だった。
 (鳥山仁・嵯峨斐峰『巨大娘研究~サブカルチャー批評の終焉と再生~』、三和出版、2012、p.7)


さらに鳥山氏は実見した批評所として、大塚英志・東浩紀・宇野常寛・新城カズマといった人たちの著作を挙げ、「『面白い』という単語を高い頻度で使用しているのが、『批評のジェノサイズ――サブカルチャー最終審判』の宇野常寛しかいない」(同書、p.8)と語ります。

「面白い」と言わず「新しい」ことを問題にするのも、ついでにしばしば現代思想を引用するのも私もやっていることで、公言していることでもありますが、しかし私はむしろ、あえて「面白い」の使用はなるべく避けるようにしています。
というのも、この言葉には「個人的には面白いと感じる」という意味合いが強いように思われるからです。

カントは『判断力批判』において「快適なもの」「美しいもの」を区別し、「このワインは美味い」という意味で「このワインは快適だ」という時には、「このワインは私にとって快適だ」という意味であるが、「このものは私にとって美しいと言うのはまったく不条理であり、「美しい」という判断は普遍妥当性を要求する、という旨を述べていますが、それに沿うならば、「面白い」は「快適なもの」に属するのではないか、ということです。
ここで、カントは「趣味判断は無関心的である」とも述べていることを同時に思い出したいと思います。
そんな馬鹿な、美術を鑑賞するのは美術に関心があるからだ、と思われるかも知れませんが、ここで言う「関心」はそういうことではなく、実用的、あるいは道徳的な関心のことです。つまり、たとえば「宮殿が美しいかどうか」を判断するのに、住むのにそんな宮殿が必要かどうかは関係ないということです。
「関心」はInteresse(英:interest)であり、「関心にかかわる」という形容詞はinteressant(英:interesting)、つまり「面白い」です。
少し話が逸れた感がありますが、とにかく日本語でも「面白い」は普遍性を持った話からは遠いニュアンスがあるのです。

鳥山氏は「数千冊以上の文献、映像ソフトを管理していなければ、印象批評以上の文章は書けない」(同書、p.16)と述べますが、参照先が数千だろうが数万だろうが、印象批評は印象批評に留まるのではないか、と思うのは気のせいでしょうか(もちろん、一般論としては、量の変化が質の変化をもたらし得ることを否定はしませんが)。

まあ、氏が問題にしていることはつまり、個々の作品の固有の魅力を捉るのではなく普遍的な構造のみを取り出そうとしたり、さらにはそこから社会を理解しようとしたりする姿勢でしょう。私も、特に大塚英志氏を例に挙げて、固有なものと普遍的なものの混同ではないかと批判しましたし、さらに「オタク」を現代社会の代表とすることにも繰り返し疑念を述べてきました。
(私自身はというと、、一方で一般論について多く語ってきましたが、特定作品を取り上げる場合にはその作品の固有性を目指してきたつもりです。しかし、結果的にそう見えるものになっているかどうかははてさて…)

しかし、鳥山氏の提唱する「不条理解析」はそれを免れるのでしょうか?
「不条理解析」とは文字通り、物語を進めるのに必要なものは「不条理」であるとの考えの下、それを抽出する分析方法です。
たとえば旧約聖書の『ヨブ記』であれば、「ヨブは信仰に厚い人物」という「キャラクター設定」も、「神と天使と悪魔が登場する」という「世界観」も抽象され、「何も悪いことをしていないのに、酷い目に遭う」「自分が信じている価値観を否定するようにと周囲から奨められる」「無実の罪の自白を強要される」という三つの不条理が取り出されることになります(同書、p.13)。
もちろん鳥山氏も、それが全てではないことは承知の上で、もう一つの解析ツールとして「フェティシズム」を用いることを主張します。キャラクターやその外見といったものは「物語に付随するフェチ」とされるのです(同書、pp.16-17)。
こうした分け方にまったく異存があるわけではないのですが、しかし「キャラクター」や「世界観」、あるいは絵によるキャラクターの外見などは「物語の面白さ」から本当に分離可能でしょうか。「その作品固有の面白さ」を大幅に削り落としてしまっているという批判は、鳥山氏の分析には妥当しないのでしょうか。
あるいはこれはやはり、「面白さ」という言葉の用法の問題でしょうか。

方法論はさておいて本書で展開される個々の作品の批評を見れば、一作品0.5~1頁という量の少なさからしてそうそう細かいことを盛り込めるはずもなく、必要なことを適切にまとめていると思いますが。

ついでにもう一つ。鳥山氏は、多くの批評が「オリジナルは存在しない」、「オリジナルとその模倣物の区別がつかない」あるいは「オリジナルとその模倣物に価値的な差異はない」と主張していることにも批判の矛先を向けます。

 しかし、批評に関しては、ほぼ完全に破綻していると言わざるを得ない。というのも、第一次大戦と第二次大戦の戦間期に発達したSF、ミステリといったパズル性の強いジャンル、ミリタリーもののように兵器類のスペックが重要視される作品群では、オリジナルのアイデアを商業誌に発表した可能性の高い作家の名前が、マニアや研究者の調査によってあらかた分かってしまっているのだ。
 たとえば石原藤夫・金子隆一の共著である『SFキイ・パーソン&キイ・ブック』(講談社現代新書)を読めば、英米で発表されたSF作品の中で、誰が最初にハードSFのアイデアを出してきたのかが分かる。また、『クトゥルフ神話』の系譜に連なる作品群は日本でもデータベース化が進んでおり、これらのデータベースも商品として流通し、かつ著者である森瀬繚や東雅夫、朱鷺田祐介らはファンから一定の評価を受けている。
 こうした詳細なデータを持っている研究家の前で、「いやあ、オリジナルなんて存在しないんですよ」と一席ぶったらどうなるかは想像するまでもないだろう。
 (同書、p.10)


しかし、では「最初にアイデアを出してきた」人だけが「オリジナル」で、フォロワーはそうではないのでしょうか。「同じネタでも料理の仕方にオリジナリティがある」ということは認められないのでしょうか。さらに、「最初にアイデアを出してきた」人は過去からまったく断絶しているのでしょうか。
系譜を知っていることと、「どこでオリジナリティが生じているか」を説明できることは別のことなのです。
「オリジナルは存在しない」といった考え方は私も批判しましたが(やはり「固有なものと普遍的なもの」にて)、「(コピーと対置された意味での)“オリジナル”は存在する/しない」という二分法に陥っているという点で、鳥山氏も大塚氏と同じ陥穽に嵌っているように思われます。

とかく、AMAZONの作品紹介にも↓のようにありますが、

既存のサブカルチャー批評にはなかった「面白さを論理的に説明する」という試みに挑戦することによって、アラン・ソーカルが起こした『ソーカル事件』以降、その妥当性に疑念を抱かれていたポストモダン系の思想・哲学から脱却し、「娯楽作品をどうやって評価すべきか」という独自の指針を提示した異色の評論集である。


このように「自分の方法こそが“正しい”方法だ」と言わんばかりに大上段に掲げられると、「何だかなあ」と思ってしまいます。
                           (芸術学4年T.Y.)

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T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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