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多重人格再考

先日マッサージを受けた時に、久々に手の冷たさを指摘されました。特に指先、冷たいですね。指にひび割れが多いのもひょっとすると、血行が悪いせいでしょうか。
名簿作りなどに関わっていますが、wordのテキストボックス関係の扱いに慣れていないのに書式に凝ってしまい、そのせいで余計に時間を食っています。

 ~~~

本日、『海賊戦隊ゴーカイジャー』最終回でした。
前回でゴーカイガレオンも大破していましたが、宿敵バスコの船・フリージョーカーでザンギャック旗艦ギガントホースに突入、皇帝アクドス・ギルと対決、およびギガントホースの乗っ取りで逆転(+地上では皇帝の側近ダイランドーと対決)……というところまでが前半、後半は延長戦的に地上で皇帝との戦いで、34戦隊全てのゴーカイチェンジを立て続けにというサービス付き(さすがに、かなりの部分音声が重なって聞き取れませんが)。
これと言って意外なところはない内容で、前半であっという間にザンギャックの大艦隊が出番終了など慌しいところもありましたが、締め括りには相応しいものだったのではないでしょうか。死してなおバスコという敵の存在の大きさも感じられましたし、皇帝も決戦ではそれなりの強さを見せましたし。

前回は「地球を守る」と言いましたが、さて子どもたちから感謝されると「俺たちはこの星を守った覚えはない。たまたま邪魔なザンギャックをぶちのめしただけだ」と、お礼を言われるのもサインするのも拒否して去るゴーカイジャー。海賊らしいアウトローを貫いてくれました。
そして…

「決まってる。宇宙で二番目のお宝だ」
「で、それはどこにあるの?」
「知らん」
「はあ!? 何それ?」
「だが目星はついてる。ザンギャックの本星だ」


というわけで、地球人の伊狩鎧をも加えて6人で、帝国が蓄えた宝を目指し旅立ちます。実に彼ららしい終わり方で良かったですね。
レンジャーキーは地球に返されました。まあ妥当なところですね。
さて、予定されている映画『仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦』の予告によれば、マーベラスがなぜかザンギャック皇帝として戻ってくるようですが、なるほど、ザンギャック本星に向かったこのラストから続くわけですが。そしてレンジャーキーが返されたことによって、この映画では全スーパー戦隊が陶磁に登場できるわけですが……ゴーカイジャーが「海賊版」に変身するのを見られないのは寂しい気も。まあ映画では色々捻りを加えてくるかも知れませんが。

 ~~~

さて、また話を変えてみることにします。
斎藤環氏は『キャラクター精神分析』(この著作も何度か触れてきました)において、「キャラ」は多重人格(解離性同一性障害=DID)における「交代人格」である、と主張しています(「成長する人物としない人物」においてもほんの少しだけ触れました)。

 DIDでは、もともとの人格にくわえ、場面や状況によって、名前も年齢もさまざまな複数の人格が出現する。フィクションに登場するような交代人格は、それぞれが自立した人格を持ち、普段の人格からは想像もつかないような知恵や行動力を発揮する。
 しかし実際には、そこまではっきりとした自律性を持つ交代人格はまれである。少なくとも僕には経験がない。一般にDIDの交代人格というのは、かなり素朴で深みのない、それこそアニメキャラに喩えたくなるような、輪郭のはっきりした人格単位である。
 ひとつ興味深いのは、ほとんどの場合、彼らはファーストネームは持っているが、「姓」が欠けているという点である。その名前にしても、「レイ」とか「ユイ」あるいは「マナ」といった、中性的で無国籍な、あえて言えばアニメ風なものであことが多い。
 さらに特徴的なのは、交代人格はほとんどの場合、年齢や性別、趣味嗜好、性格傾向がきわめてはっきりしていることだ。つまり、記述しやすく輪郭がはっきりしているのである。「年齢や性別も定かではない人格」も時には存在するが、それは「謎キャラ」や「不思議キャラ」という設定と考えるなら、これもかなりわかりやすい。
 (斎藤環『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』、筑摩書房、2011、pp.44-45)


つまり、人間の人格とは「冷静でかつ熱い」「子どもっぽい一方で老成した面もある」といった両義的な性質のものですが、交代人格は「熱血キャラ」「沈着冷静キャラ」といった記述が可能なような平板な存在である、ということでしょう。

さて、社会学者の大澤真幸氏も、多重人格が近年になって急増した病であることから、現代について考えるための切り口の一つとして、多重人格を取り上げています。

 なぜ、人格が多重化するのだろうか? というより、純粋に論理的に考えるならば、一般には、なぜ人格が解離せずに統一的なままに留まっているのか、ということの方が不思議なことである。多重人格に陥らない一般の人には、あらゆる状況を貫通する骨太の同一性(アイデンティティ)や心理的な継続線が、あるのだろうか。そんなものはあるまい。私の同一性とは、結局、その都度の間主観的な関係のゲームの中で、割り振られた役割にほかなるまい。私は、ときに子として振る舞い、ときに友として振る舞い、そしてときに教師として振る舞う……。これら、多数の同一性を貫く共通性など、ほとんど何もない、と断定したほうが正直なところであろう。これらの同一性とは、その都度の状況において私がまとう「仮面」であり、それゆえ「構築されたもの=虚構」である。多重人格者は、むしろ、こうした条件に、素直に反応しているのである。
 多重人格者は、何人もの人格をその内面に抱えている(そして、それぞれの人格は、誰に付けられたのか分からない名前をもっている――が姓をもっている場合はほとんどない)。たいていの精神科医は、それぞれの人格に、過度の演技性を感じる。つまりに、あまりにもステレオタイプなのである(たとえば、ある患者の人格のひとつが「三歳の女の子」だとすると、あまりにもその典型的なイメージの通りに振る舞う)。このことは、患者の各人格が、社会的に構築された仮面であることを如実に示している。
 (大澤真幸『不可能性の時代』、岩波書店、2008、pp.160-161)


二段落目は多重人格の実態について触れていますが、ここの記述がおおむね斎藤氏と一致することはお分かりでしょう。
問題は前半部です。
大澤氏は、たとえば母の前で子として振る舞う、その「子」としてのあり方、あるいはまた友達の前では友として振る舞うあり方――といったものを「同一性」と呼んでいます。そして、人間は誰しも複数の同一性を使い分けているというのです。そこまでは良い。
そうした様々な「同一性」は存在しているけれど、「多数の同一性を貫く共通性」は「ほとんど何もない」とすれば、複数の「同一性」こそが「実在(現実)」であり、一つの「私」は虚構である、としても良さそうなものです。ところが大澤氏は、複数の「同一性」が「構築されたもの=虚構」である、と言うのです。

「一つの私」とは、「多数の同一性を貫く共通性」といったものとは別のレベルに存在しているのか、それとも虚構よりももっと存在しないものなのか、どちらと考えるべきでしょうか。
大澤氏は「現実はつねに反現実に定位している」ことを強調し、その反現実の時代による変化を問うているわけですが、逆に「虚構(反現実の一つ)」はいかなる「現実」に対する「虚構」なのか、と問うても良いはずです。この場合、「一つの私が存在する」のと「同一性も統一性も存在しない」のと、どちらが「現実」なのでしょうか。

前者だとすれば、多重人格はその「私」が見失われることによる、と考えられます(「いかにして見失われるのか」はやはり問うべき問題ですが)。しかし後者だとすれば、多重人格に陥らない人において「私は一人である」という虚構ですらないことが成立しているというのは、一体どういう状態なのでしょうか。多重人格者は、様々な同一性が存在し、その共通性などはほとんど存在しないという状況に「素直に反応している」のだとすると、普通の人が「素直でない」というのは、どういう状態なのでしょうか。
大澤氏は「なぜ人格が解離せずに統一的なままに留まっているのか」の方が不思議だと言いつつ、この問いにはっきりと答えてはいないように思われます。そもそも、「私」というものが存在するのかしないのか、大澤氏の立場がどちらなのかも明瞭ではありません。たしかに表向き、氏は統一性など存在しないことを強調しているように見えますが、しかし複数の同一性の間の共通性などとは別のレベルで「一つの私」が存在している可能性も、上の論からは排除できません。

私が以前に多重人格に触れた時に取った立場は、(ベルクソンに依拠して)「一つの私は存在する」でした。
ただまあ、「同時に一つを身体を支配する」のは一つの人格である、つまりある瞬間において「私は一人である」というのは自明のことですが、「あの時の私」と「この時の私」は別物でもおかしくないように思える、という時間特有の性質が問題なのであって、たしかにこれは厄介な問題なのです。
 (続くかも知れません)
                           (芸術学4年T.Y.)

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