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時間と物語とキャラ

いきなりですが、『仮面ライダー電王』('07年)と『仮面ライダーディケイド』('09年)は同じ設定でした。
まず、『電王』はタイムトラベル・過去改変もので、敵は未来からやって来たイマジンという怪人です。その一方で、夏の映画『俺、誕生』で初めて触れられ、それから重要になっていく設定ですが、この世界において時間とは人々の記憶です。たとえイマジンの干渉によって過去のものが破壊されても、時間そのものが破壊されそうになっても、人々が覚えている限り、元に戻ります。
過去というのは現在における人の記憶であると同時に、過去にタイムスリップしての干渉で現在が変化することもあるというなかなかにややこしい構図で、またパラレルワールド的な設定もあり、さらにシリーズが進むにつれて細部の設定は変わっているところもあって、その全てを語るのは難しいことですが、とにかく、本作における時間とは人に記憶されて存在するもの、つまりは物語的なものです。

他方、再三述べてきたように『ディケイド』はメタ作品であり、本作中における過去のライダー達の「世界」とは「物語」のことに他なりません。それゆえ、人々が記憶し、物語っている限り、死んだライダーでさえ蘇ります。

つまり、両作品に共通する設定を一言で表すなら、「存在することは物語られることである」という存在論的テーゼになるでしょう。
だからこそ、『ディケイド』の中でも電王編だけは、(一部役者は交代しているものの)『電王』本編と同じ役者・声優の演じる正規の続編でした。

『ディケイド』における大ショッカーはやはり過去の悪の組織の幹部・怪人・戦闘員を寄せ集めたパロディだったのに対し、昨年の映画『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』(タイトルの通り、これも電王の続編です)は、過去の改変によって40年前の元祖『仮面ライダー』における本物のショッカーが仮面ライダーに勝利し、その後に出現した悪の組織とも同盟を結んでしまったという設定でした。しかしそもそも、『電王』においては時間とは物語だったのですから、過去を改変するとは物語を書き換えること、つまりは過去を二次創作化することであって、結局、そうして異なる歴史を辿った本物のショッカーは、二次創作たる大ショッカーと同じようなものです。

さて、宇野常寛氏も『リトル・ピープルの時代』において、『電王』と『ディケイド』が同じモチーフを扱っていることを指摘していますが、切り口は少々異なります。それは「キャラの複数性」です。

「特異点」である良太郎はモンスター=イマジンに表意されやすい体質のもち主であり、その体質を利用するとともに本来敵であるはずのモンスターの能力をとりこんで仮面ライダー電王に変身する。常に〈敵〉の力を用いて「変身」する内在的ヒーロー=仮面ライダーにとって、それ自体は当然のことに過ぎない。しかし仮面ライダー電王に変身中、良太郎の人格は完全にイマジン=モンスター側に切り替わる。良太郎には4体のモンスターが憑依しているので、つまり彼は状況に応じて4つの人格を切り替えて困難に立ち向かうことになる。仮面ライダー電王はその内面に無理矢理「他者」をインストールされ、アイデンティティを複数化されてしまった存在だ。そしてさらにはその状況を利用して戦う仮面ライダーなのだ。

 平成「仮面ライダー」シリーズの歴史とは「変身」という表現を書き換えていく歴史でもある。[……]それはすなわち、「変身」の根拠の外在化である。[……]
 そして『仮面ライダー電王』は「変身」がコミュニケーションによる関係性構築の比喩であること/関係性構築の比喩に変化したことを隠そうとしない。仮面ライダー電王にとって「変身」とは、他者――具体的には仲間のイマジン(モンスター)を自分に憑依させること(他者をインストールすること)である。エゴの強化からコミュニケーションへ――仮面ライダーはもはや誰かとつながることなくしては「変身」できないのだ。
 (宇野常寛『リトル・ピープルの時代』、幻冬舎、2011、pp.309-310)


そして、ディケイドが他のライダーに変身できるようになることについては(再引用になりますが)、

 これはキャラクター的な複数性をもって「変身」を根拠付ける回路とした『電王』の延長線上にある想像力だ。ディケイドにとって変身とはデータベースとは固有名を読み込むことだ。しかもそのことがその身体を、読み込んだ固有名の側(過去の仮面ライダー)に明け渡してしまう。士=ディケイドは(かつて良太郎とイマジンたちがそうであったように)訪れた過去番組の世界で、各々の仮面ライダーたちと関係性を構築することでその変身能力を得ていく。士はアイデンティティの確認(ナルシシズムの記述)のために、データベースから他のキャラクターを読み込んで、その身体を明け渡す/ハッキングしていくのだ。
 (同書、p.334)


これらの設定の間に結び付きがあるとすれば、世界を物語的に捉えることと、多重人格的に「キャラ」が複数化することとの間にははっきりとした関係があることになるでしょう。
というわけで、多重人格再考から続いています。

ポイントは斎藤環氏が「キャラ」の特徴として「交代人格(DID)である」と並んで「記述可能な存在である」を挙げていることにあるでしょう。つまり「○○キャラ」という記述が可能だ、ということです(成長する人物としない人物にて引用)。
しかも斎藤氏はこれを「人間」と「キャラ」の違いという文脈で挙げていますから、つまり人間は記述不可能である、ということになります。
「多重人格再考」で書いたように、人間の人格は「冷静でかつ熱い」「子どもっぽい一方で老成した面もある」といった両義的なもので、いくら記述してもそこから漏れ出るものがある、ということです。何度か引用したベルクソンの表現を引き合いに出すなら、他の人と共通する属性にいくら分析しても、その人の固有性にはけっして届かないのです。
さらに斎藤氏は、「人間」は「キャラ」に先行することを主張しています。つまり、記述不可能な人間から「熱血」「沈着冷静」「子どもっぽい」「大人びている」といった記述可能な面を切り出したものがキャラなのです。
そして、物語化するということは記述するということであり、記述可能な面を切り出して固定する操作でとなり得ることは、比較的容易に理解されることでしょう。

「多重人格再考」においては、「一つの私」が存在するのか否か、あの時の私とこの時の私は別物なのかを保留したような形になりましたが、多重人格における交代人格がほとんどの場合厚みを欠いた「キャラ」であるという報告こそが、「人間」としての「私」は複数化できない、つまり時間的な厚みを持って一つのものであることを、実証してはいないでしょうか。
さっき怒っていた人が今度は悲しんでいます。しばらく会わない内にすっかり別人のようになっている人がいます。しかし、そのように変化するという流れは一つであり、それこそが私の統一性なのです。

この辺の議論はやはり、もっぱらベルクソンに依拠しているのですが、ベルクソンによれば多数化の条件は「空間」でした(「多重人格」参照)。時間を空間中の線のように考えることで、それを切り分け、あの時とこの時を並置することも可能になるのです。
が、他方で私は、「時間を物語構造的なものとして捉えること」が、「時間を空間中の線のように捉えること」とは異なる時間イメージを提供できる可能性を論じ(「不適切な問いを立てない、ということ」参照)、また「物語構造的」な時間に基づいた『魔法少女まどか☆マギカ』を、複数の世界とメタ世界を廃して「一つの生」に立ち戻るものとして論じてきました。

したがって、「物語化」はキャラを複数化することと人間の生の一性を捉えること、両方の効果をもたらし得る――最近の考えは、そのように傾いています。
                           (芸術学4年T.Y.)

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テーマ : 芸大・美大・その他美術系学校 - ジャンル : 学校・教育

コメント

No title

>さっき怒っていた人が今度は悲しんでいます。しばらく会わない内にすっかり別人のようになっている人がいます。しかし、そのように変化するという流れは一つであり、それこそが私の統一性なのです。

仏教で、一身即三身、三身即一身 と言うのに近いかな?

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Author:T.Y.
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