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等価交換と心身合一

今日も引用文から。以前に触れた、ひこ・田中氏の著作の、『鋼の錬金術師』を論じた箇所からです(注意:最終回のネタバレを含みます)。

 少年マンガではもう一つ、『鋼の錬金術師』(荒川弘、二〇〇一年)をあげておきましょう。
 錬金術が存在する世界が舞台です。腕のいい錬金術師は魔法陣を描いて様々な物を生成することができますが、それは無からではなく、必ず等価交換によって可能となります。何かを分解し再構築するわけです。
 主人公エドワードと、弟のアルフォンスは、亡き母親を生き返らせたいと願います。しかしそれは「人体練成」と呼ばれ、錬金術にとって最大のタブー。二人はそれを犯し、失敗に終わってしまいます。それでも錬金術は行われたのですから、等価交換が作動してエドワードは左脚を失います。一方アルフォンスは体のすべてが等価交換で消失してしまいそうになりますが、その瞬間にエドワードは自分の右腕を代価として差し出し、なんとか弟の魂だけを側にあった大人の鎧に定着させるのです。一方エドワードは失った腕と足を鋼のオートメイル(機械鎧)で代替してもらいます。
 [……]
 等価交換によって世界が成り立っているという発想は、右肩上がりの成長を描いてきたこれまでの多くの子どもの物語とは別のもおです。成長とは常に積みあがっていくのではなく、何かを失うことでもあるのは、多くの青春物語が描いてきたテーマではあります。しかし、その場合には、失われていく幼さや若さや純粋さを愛おしんだり、懐かしんだりすることが重要な要素であり、時にはそれこそが描きたいテーマでした。
 ところが、ここではそれが、あっさり等価交換と表現されます。
 [……]
 最終回、エドワードを全力で戦わせうために弟のアルフォンスは自分の魂を放棄します。そうすればエドワードの失われた体が戻るからです。戦いが終わった後、エドワードはアルフォンスの魂のいる場所へと入っていき、自分の錬金術師としての能力と等価交換してもらって、弟を取り戻します。
 これはいささか都合が良すぎる結末ですが、この設定の物語を閉じるための数少ない選択肢の一つではあったでしょう。
 それにしても、物語が閉じて初めて、この兄弟の成長は始まることになります。その意味では、この結末でもやはり「成長」は物語の外に置かれています。
 (ひこ・田中『ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか?』、光文社、2011、pp.294-297)


本書中で「成長」の語がきわめて多義的に用いられていることはすでに指摘した通りなので、ここでは繰り返しません。このケースで問題になっているのは身体の生物学的な成長ですが、これは他の作品を論ずるに当たってはあまり問題になっていないものです。
が、その「成長」が『鋼の錬金術師』という物語の「外に置かれて」いるという指摘は比較的適切なものに思われます。

『鋼の錬金術師』について深入りする力は今はありませんが、しかし、ここで気付かれることがあります。
当然のことながら、『鋼の錬金術師』の世界でも、あらゆる生物は日々「生長」しています。しかしそのこの上なく当たり前のことこそ、「等価交換の法則」に支配された錬金術の手の届かないものなのです。

ところで、「等価交換」と言っても、それはもちろん金銭的な価値のことではありません。『鋼の錬金術師』世界においては、法律で禁止されてはいるものの、技術的には金を作ることも可能なのですね。そこでまず問題になるのは「材料が必要」という質量保存則であり、エネルギー保存則です。
そうした即物的な法則を「等“価”交換」と表現することが適切かどうかという疑問はありますが、まあそれも今更なことです。

しかし、上記の人体練成の問題(死者蘇生の不可能性)と「成長」の件から言うと、絶対的に保存されればならないのは「生命」なのではないか、と思われるのです。
しかもそれは、(錬金術においてではなく)自然界においては、ごく普通に増大しているものなのです。

さらに考えを進めてみましょう。
『鋼の錬金術師』世界において、魂が身体から分離できることは、身体なき魂を鎧に定着させられることからも明らかです。また、物質的に人体を練成することも可能です。
ところが、死者の魂があり、かつ身体を作っても、死者の蘇生は失敗します。
つまり、錬金術によって得られないものは、魂と身体の結び付きなのです。

『鋼の錬金術師』に限らず漫画にはしばしば見られる、死んだら魂が身体から分離して抜け出す、という設定を考えてみれば分かります。魂と身体は分離してそれぞれに存在し続けていますが、もう死霊と死体であり、生きてはいません。つまり、生きているということは魂に属するのでもなく身体に属するのでもなく、心身合一に属するのです。
ちなみにここから、心身を分離させられた魔法少女が「ゾンビ」的なものとなってしまうことも理解されます。

さて、『鋼の錬金術師』においては、錬金術の法則を根底から揺るがし死者蘇生をも可能にするとされる「賢者の石」も、人間の魂を材料としていました。つまり、対価としての「生命」を先払いしていただけ、と考えられます。
「生命」にだけは技術は届かない、というのは、それ自体としては古典的なテーマですが……

[……]人間の現象学的身体を考察するに至る時、デカルトはもはやそれに本質的規定としての延長を帰属させてはおらず、反対に、延長と思惟の二つの原初的本性――多くの面でデカルトの体系全体がそれに基づいていると思われる――に劣らず根源的な、新たな単純な本性の存在を認めることによってしか、この身体――それはもはや、その本質に関しては、他のどんな物体とも同一視できない――の精確な本性を説明することはできないと考えている。この新たな、根源的で単純な本性とは、心身合一のそれである。デカルト主義はもはや二元論ではなく、三つの原初的で単純な本性はその尊厳と自律性において、またそれらを絶対的実体、すなわち神と統一する依存の結び付きに関して、平等である。
 (ミシェル・アンリ『身体の哲学と現象学 ビラン存在論についての試論』)



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                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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