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オリジナルと二次創作の緊張関係

プロデューサーが途中交代した『仮面ライダー響鬼』のような例は珍しいのですが、メインライターあるいはシリーズ構成が番組途中で交代するというのは、時としてあることです。
『仮面ライダーディケイド』も、第1話~第7話の脚本は會川昇氏でしたが、ラスト6話および映画2本の脚本は米村正二氏です。
全体の構成に関わる最初と最後はメインライターが担当するのが普通ですし、そもそも『ディケイド』は冒頭で最終回を先取りする構成になっていましたから、やはり途中で交代劇があったのでしょう。
そもそも『ディケイド』にはまともな筋などないのであまり気にしていませんでしたが、そもそも「まともな筋がない」という印象自体、交代後の後半の印象によるところが大きかったかも知れません(個々のエピソードが破綻していることは序盤からままありましたが…)。

そう考えると、9つの世界を巡り終えた後のエピソード「ネガ世界」と「ディエンドの世界」の2つのエピソード、計4話の脚本だけが井上敏樹氏であるのも、(プロデューサーまで含めて制作陣が交代した)『響鬼』後半に井上氏が起用されたのと同じ理由、つまり急な予定変更に当たって速筆なのが買われたのではないか、という推測が成り立ちます。
この2つのエピソード、「ネガ世界」ではディケイドの強化フォームであるコンプリートフォームが登場、「ディエンドの世界」はメインキャラクターであるディエンド=海東の過去と素性が明らかに、と、それぞれストーリー上必要ではありますが、記憶喪失のディケイド=門矢士の過去を海東が知っているらしい、といった伏線はほとんど放棄されていますし、やはり「当初の予定通りに回収できなくなったからこうなった」というのが適当なところのように思われます。

なぜそうなったかは想像の域を出ませんが……(以下はネット上で見た考察によるところも大きいのですが、どこで見たのか忘れてしまいました)

ポイントは、第1話と最終話に『仮面ライダーキバ』の主人公・紅渡(『ディケイド』の「キバの世界」に登場するワタルではなく、瀬戸康史の演ずる本物)が登場し、最終話にはさらに『仮面ライダー剣』剣崎一真(演:椿隆之)も登場していることです。
つまり、本来の予定では、ディケイドが巡る世界の二次創作ライダーとは別の「本物」が絡んで「ライダー大戦」に繋がる予定だったのが、本物の役者の出演が取り付けられなかった――という説は、十分な説得力があります。

とは言え、『ディケイド』がメタ的な作品であったことは最初から確かなわけで、とすると、メタ物語としての『ディケイド』は本来、オリジナルと二次創作の関係について、もっと複雑な状況を描いてくれるはずだったのかも知れません。
実際に放映された『ディケイド』においては、最終回で「本物」のライダーたちが一斉にディケイドを攻撃することになるものの、完結編となる『MOVIE大戦』においては二次創作のライダーたちがディケイドに一度倒され、復活するだけで、「本物」の扱いは有耶無耶になります。結局、二次創作がすっかり本物に取って代わった格好になるわけですが、そこから「オリジナルと二次創作は等価である」といった現代思想お馴染みのテーゼに至るのは、一面的に過ぎるという可能性はあります。
一例として、

 n次創作は、現代日本のポップカルチャー、特にキャラクター文化を考える上でのキーワードだ。たとえば、現代日本において漫画、アニメ、ゲームなどのキャラクターたちは、1次情報としての作品それ自体の消費者たちにn次創作――すなわち同人パロディ漫画、小説、イラストなどによって第2、第3の生を与えられることによって消費される。[……]もはや創作物のポピュラリティは、n次創作市場の規模によって計測できると考えてもよいだろう。映画や漫画といった表現それ自体よりも、n次創作の単位としてのキャラクターへと、消費者の所有欲の対象は変化しているのだ。
 (宇野常寛『リトル・ピープルの時代』、幻冬舎、2011、pp.332-333)


これはまさしく『ディケイド』を論じる中で出てきた文章です。
これがまったく間違っているとは言わないものの、「表現それ自体よりも」という、裏を返せば「表現それ自体」は相対的に軽んじて良いかのような言い方には、行き過ぎの感はあります。

ここで思い出されるのが、『ディケイド』の登場人物・鳴滝氏です。
鳴滝はディケイドを「世界の破壊者」として敵視し、行く先々の世界に現れてディケイドを倒そうとする謎の中年男性です。
「おのれディケイド、貴様のせいでこの世界も……」が彼の口癖ですが、ディケイドが本当に「世界の破壊者」なのかどうか、視聴者には最初の内は分かりません。しかし後半になると、鳴滝の言動は説明がつくどころかますます意味不明になっていきます。
たとえば同時期に放映中であった『侍戦隊シンケンジャー』との共演回では、ディエンドが変身アイテムであるディエンドライバーをアヤカシのチノマナコに奪われ、それによってチノマナコは(悪の)ライダーに変身してしまうのですが、これは全てディケイドではなくディエンドのせいであるにもかかわらず、鳴滝は「おのれディケイド、貴様のせいでこの世界にもライダーが出現してしまった」と叫びます。
完結編であるMOVIE大戦に至っては、鳴滝は自分でゾル大佐になりきり、スーパーショッカーを結成したにもかかわらず、スーパーショッカーが生み出したネオ生命体が暴れ出すとすぐさま鳴滝の姿に戻り、いつも通りの「おのれディケイド~」です。
実際にディケイドのせいかどうかなど、何の関係もありません。

唯一可能な解釈は、鳴滝はライダーファンとして、それぞれの作品世界が二次創作化され、いじり倒されていることに怒っている、というメタ解釈です。
ディケイド=士が作中で何をしたかが問題ではなく、『ディケイド』というメタ物語、すなわち他のライダー(時には戦隊までも)の二次創作化を可能にする条件としてディケイド=士が存在していることが怒りの対象なのです。
まあこれは、今更言うまでもなくファンの間では周知の事実でしょう。
こんな核心を捉えたネタもあります。

「おのれクー子、あんたのせいでシャンタッ君の設定も破壊されてしまいましたか!」
 (逢空万太『這いよれ! ニャル子さん』7巻、ソフトバンククリエイティブ、2011、p.263)


メディアミックス作品等の出来に「何か違う」と不満がある時も「おのれディケイド」と言っておけば大体通じます。

問題は、「物語」が「世界」とされていたような、メタ的意味を含んだ設定でさえ、鳴滝についてはついに存在しなかったことです。
これもやはり、当初予定されていた「オリジナルと二次創作の間の緊張関係を描くストーリー」が頓挫したせいで、説明する機会がなくなってしまったのではないでしょうか。

オリジナルと二次創作の関係についてはまだまだ問う余地がありそうですが、ひとまず『ゴーカイジャー』に関連して私が主張したのは、たとえオリジナルと二次創作が等価に近付こうと、絶対に一つしかない真正なるものがあって、それは二次創作が作られ、そのように二次創作可能なものとしてキャラが成立してきた「現実の歴史」である、ということでした(「誰も歴史を奪えない」にて)。
あまりにも当たり前のことですが、これは私が萌えに関して主張してきたことにも繋がります。つまり、萌えは必ずしも対象の性質によるのではなく、我々がそれを受容する際の経緯と分かちがたく結び付いていること、そして結局、作品の価値には我々自身のあり方が密接に関わっているがゆえに、「作品世界/現実世界(メタ世界)」という二層の厳密な上下関係は成立しないということです。
最後に、その好例と思われる記述を一つ挙げておきましょう。

 平城遷都一三〇〇年祭の公式マスコットキャラクターとして、鹿の角が生えた童子が現れたのは二〇〇八年二月一二日のことだった。東京藝術大学大学院教授であり彫刻家の藪内佐斗司(やぶうち さとし)がデザインを担当したキャラクターは、一般公募の結果「せんとくん」と命名され、公開された。
 公開当初、「せんとくん」の評判はさんざんだった。「気持ち悪い」「角を生やすなど仏さまを侮辱している」といった批判が殺到し、市民運動にまで発展した。あるいは独自に「まんとくん」などのキャラ案が提出されたこともあった。
 たしかにせんとくんのデザインは、通常の意味でのキャラ作りの文法からは大きく逸脱している。最大の問題点は“生々しい身体性”を持ちすぎていることだ。ここまでの記述からもわかるとおり、キャラは基本的に二次元的な存在でなければならない。藪内は彫刻が専門であったためか、立体感がありすぎるのが生々しさにつながったのだろう。
 第二に表情が豊かすぎるという問題がある。日本でウケるキャラクターは、サンリオキャラがそうであるように、ほぼ例外なく無表情だ。すでに述べたとおりディズニーのキャラクターはアメリカ産で人間の隠喩としてつくられているので異様に表情は豊かだが、これは例外中の例外というべきだろう。
 せんとくんは以上の文法をおよそ意に介さず、表情が豊かで人間臭いうえに、生々しい三次元的な存在感を持っていた。ところが公開から二年を経た最近になって、徐々にせんとくんの人気が高まりつつあるという。この過程にこそ、キャラクターがキャラ化していくさまが如実に表れていて興味深い。
 キャラとして受容されるためには、最初から人気を博すのが難しい場合、“ゆるキャラ”のように一回転させて、ネタとして弄りやすくしてから受容するというルートもある。せんとくんの登場も最初は「痛いネタ」だったわけだが、そのぶん「ネタ」としての人気は高かった。
 [……]
「せんとくん」騒動からは、キャラが人々に受容されていくさいの重要な法則を学ぶことができる。まず、キャラには物語りは必ずしも必要ではないが、受容のための文脈が必要であるということ。とりわけそうした文脈(「せんとくん」で言えば、痛いキャラとして評判になったという経緯)は、のちに忘れられるためにこそ重要であるということ。そしてもう一つ、キャラの受容文脈を作り出すのは、ひたすら露出を繰り返しその同一性を認識してもらうことにつきる、ということである。
 (斎藤環『キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人』、筑摩書房、2011、pp.172-174)



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                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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