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『テヅカ・イズ・デッド』とキャラの誕生

今回は予約投稿機能を使ってみることにします。
もっとも内容は、今回も引用メモ集+以前の論のまとめ直しみたいなものですが……今更のようにマンガ評論家・伊藤剛氏の『テヅカ・イズ・デッド』を読んだので、問題の箇所を拾ってみました。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へテヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ
(2005/09/27)
伊藤 剛

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[……]さらにリアリティとは、「もっともらしさ」と「現前性」とに分けて考えることができる。作中世界の事件やものごとをいかにも「実際にありそうなこと」に感じさせるという意味の「もっともらしさ」と、作中世界を、あたかも自分の目の前で起きているように感じさせたり、作品世界の出来事がありそうかありそうでないかにかかわらず、作品世界そのものがあたかも「ある」かのように錯覚させることである「現前性」である。
「リアリティがある」という言い方がされる場面を思う起こしてもらえれば判るように、一般にリアリティとは「もっともらしさ」の意味で使われる。これに比べて「現前性」は、普通は意識されない。これを提供するメカニズムは、受け手からは「見えない」ものになっているからである。
 (伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』、NTT出版、2005、p.85)


最近まで知りませんでしたが、この「もっともらしさ」「現前性」の区別は、私の言う「知解可能性」と「親しさ」に対応します(「リアリティとインティマシー」および「インティマシーとインテリジビリティ」参照)。ただ、今回の問題はここではありません。

 現在では一般に、「キャラクター」とは「マンガ(やアニメなど)の登場人物」のことだと考えられている。ことマンガの場合は、ほぼ「登場人物」と動議にとらえられているといっていい。マンガ原作者でもある小池一夫の言葉でいう「キャラクターが立つ」とは、この意味である。一方、「キャラ」とは、たとえば「ハローキティ」のような簡単な図像で作られているものをイメージしてもらえばわかりやすいだろう。前章で『ぼのぼの』を説明するために記した要件(本書五七頁)が、「キャラ」の成立条件となる。
 マンガの「キャラクター」においては、この両者の特性が重なっている。その重なりとは、「キャラ」というものの成立の上に、「キャラクター」を表現しうるようになっていると考えられる。
 (同書、p.88)


「『ぼのぼの』を説明するために記した要件」の方を見ますと、

一 目、顔、体のある「人間のような」図像
二 一人称と固有名による名指し
三 コマの連続による運動の記述
 (同書、p.57)


です。
伊藤氏は、マンガは(多くの文学作品と違い)作品が主人公のキャラ名で記憶されるとか、この条件にもある通り「図像」が必要で、また「固有名による名指し」があれば絵だけでも「キャラ絵」として成立するといった事柄を挙げ、「キャラ」と「キャラクター」の関係を明確化していきます。

 このような記述を続けることで、「キャラクター」という概念に対する「キャラ」の位置づけ、「キャラクター」と「キャラ」の概念的な差異が次第に見えてくると思う。つまり、「キャラクター」は「登場人物」と等価な意味として扱いうるが、「キャラ」はそうではない。そして「絵」でもない。少なくとも「絵画」ではない。いいかえれば、描かれた図像単体で自律しているものではない。[……]
 つまり、「キャラ」とは「キャラクター」に先立って、何か「存在感」「生命感」のようなものを感じさせるものと考えられる。「前(プロト)キャラクター態」とでもいうべきものに位置づけられるのである。逆にいえば、小池一夫によって「立てるもの」として見いだされたような意味での(あるいは、一般に考えられているような意味での)「キャラクター」が、実はマンガという表現全体から見れば、時代的にも、またマンガ表現のなかでも限定されたものでしかないことを意味している。

 あらためて「キャラ」を定義するとすれば、次のようになる。

 多くの場合、比較的に単純な線画を基本とした図像で描かれ、個有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの

 一方、「キャラクター」とは、

 「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの。
 (同書、pp.94-97)


さて、お気付きになった方がいるかどうか分かりませんが、私はある疑問を感じます。
伊藤氏によれば、「キャラクター」が表現可能になるのは「『キャラ』というものの成立の上に」であり、「キャラ」は「キャラクター」の「基盤」であって、キャラクターに「先立」つものです。

しかし、「キャラ」は「図像+固有名による名指し」であるが物語の「登場人物」であるとは限らず、その背後に「『人生』や『生活』を想像させる」必要もない、という記述からたしかに「キャラ」と「キャラクター」の区別は分かりますが、そこから「キャラ」が「キャラクター」に「先立つ」ことが導かれるでしょうか。
ここには「複雑なものは単純なものの合成からなる」という、ある種の先入観が存在しているように思われます(※)。
もちろん、科学においてはこの前提は大事です。しかし、その原則がどこまで適用できるかは、また別の話です。
「単純なものは複雑なものから抽出される」という命題も成り立つ可能性はあるはずです。

※ 「人生」や「生活」の存在、あるいは内面性の厚みといったものを「複雑」と表現すること自体、不適切かも知れません。
伊藤氏は別のところで「〔宮本大人が挙げる「キャラクター」の構成条件6つの内〕『不透明性』『内面の重層性』を欠く(あるいは、必要としない)」ものとして「キャラ」を定義しているので、「より内容の多いものはより内容の少ないものの合成からなる」とでも言いましょうか。

実際、伊藤氏はこうも言っています。

 しかし、先に見たように「キャラ」と「キャラクター」は密接不可分であって、どちらかの性質が卓越することはあっても、どちらかだけということはあり得ない。つまり、プロトキャラクター性――「人格・のようなもの」という言い方を取れば「・のようなもの」性――は、否認されながら、否認されることで逆に温存され続けてきた。それは潜在し続けてきたのである。
 (同書、pp.120-121)


しかし両者が「密接不可分」で「どちらかだけということはあり得ない」のであれば、どちらかが「先立つ」ということはどういうことでしょうか。
もっとも、先行性というのは、“まず一方のみがあって、それから他方が生じる”という時間的先行性の意味とは限らないでしょう(逆に私としても、「キャラ」的なるものが排除されて「人間」のみが存在する、という状況を安易に想定はしません)。
ただ、であればキャラの先行性とはどんな先行性かと問うた時、「単純なものが先行する」という前提に訴えるのでない限り、伊藤氏がそれを説明していないように思われるのは確かです。


斎藤環氏はこの伊藤氏の論を「ほとんど逆転」させ、「キャラ」は「人間」から抽出されたものであって、「人間」の方が「キャラ」に先行する、と主張しました(「まどか☆マギカ――斎藤環氏の解釈」参照。ただし多分に『魔法少女まどか☆マギカ』の内容を含みます)。
斎藤氏が『キャラクター精神分析』における「最も重要な“発見”」と見なしたのは「『同一性』は人間にのみ当てはまる概念である」ということであり、その「同一性」を取り出したものが「キャラ」である、ということです。
ただ、この「最も重要な“発見”」の論証としては、“「同型の車をみかけた」としても、「よく似た車だな」と思うだけだが、「同じ外見の人物を認識したなら」、「ごく自然に、同一の人物と見な」す”、といった話があるだけで、弱い感はあります。重大な発見である分だけ、それを理論化するのに苦労している感も窺えます。


さてここで、私は人間の人格の「統一性」を、「同一性」から区別しました(「時間と物語とキャラ」参照)。
「父」「子」「教師」「○○キャラ」といった形で記述可能なものが「同一性」であり、そうした諸々の記述には還元されず、さらにそうした同一性が「別のものになる」という時間的厚みを含んで一つであるものが「(人格の)統一性」です。

そして、定義からして「記述可能なもの」(=キャラ)をいくら集めてもそれはやはり記述可能であって、「記述不可能なもの」(=人間)には届きません。
したがって、「記述不可能なもの」があらかじめ存在し、そこから切り出されるような形で「記述」が生み出される、と考えざるを得ません。そして、その記述に寄り添って、しかしけっして記述の届かないものとして、「記述不可能なもの」は存在し続けているのであって、それゆえ全てが「記述可能なもの」ばかりになることはありません。
 Q.E.D.(証明終了)


ところで伊藤氏によれば、'80年代以降、「マンガの『読み』の快楽において『キャラ』のレヴェルを中心に自足できる群と、テクストの背後に『人間』を見てしまう、つまり『キャラクター』としてしかマンガを読めない群とに分かれる」(p.118)という事実があり、後者の「『キャラクター』の背後に常に『人間』がいるという『読み』でのみマンガを(おそらくアニメ、ゲームでも同様だが)語り、分析しようとしても、上手くいかない」(p.119)と述べます。これがキャラの優位を主張するもう一つのポイントかも知れません。
私としても、キャラの背後に人間を見出そうとしても上手く行かない作品の存在には反対しません。しかし、伊藤氏がそうした漫画の例として挙げる『のらみみ』(原一雄)についての、以下のような言及が重要です。

[……]しかし、彼ら〔=『のらみみ』の登場人物〕は「キャラ」だと明言される。妖精でも、ロボットでもない。彼らの存在は「現実」に指し示す対象を持っていない。いや、「持っていない」というのは正しくないだろう。テクストの外、「現実」に指し示されているのは、私たちが過去にマンガやアニメで得た「キャラ」への感情移入体験の「記憶」である。もちろんこれは「キャラの自律化」の顕れである。こうした事態は、どうとらえられるのだろうか。
 (同書、pp.119-120)


「過去にマンガやアニメで得た『キャラ』への感情移入体験の『記憶』」は、「私たち」という「人間」に属しているのでなければ、どこにあるというのでしょう。
「キャラの背後」に「人間」はなくとも、キャラの成立に当たって、読む人間はつねに前提されています。
そんな当たり前のことを言ってどうなる、と思われるかも知れませんが、ここには読む(+描く)人間の、同一性には還元されない「統一性」が外に投影されるや否や、「同一性」を生み出す、という(一見すると)逆説的な状況があって、それこそが「語ること」であり、「キャラ」を生み出す原理なのです。
この点はまだ論じる余地がある気もしますが、それはまたの機会(あれば)に。
                           (芸術学4年T.Y.)

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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