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「マンガのモダン」とは何か

『テヅカ・イズ・デッド』とキャラの誕生から、ラストの統一性と同一性の話ではなく、「キャラ(クター)」論の方をもう少し続けてみます。

伊藤剛氏は、「大きな物語の終焉」(リオタールの用語です)と、それにより大きな物語=世界観ではなく、キャラの「データベース」が消費対象となる事態にに「ポストモダン」の特質を見る東浩紀氏の議論を高く評価し、それを「キャラ」の「テクストからの遊離」――つまり、キャラ本来の物語から独立して、あるいは元々物語を持たないキャラが出現して、それらが二次創作可能になるという状況――と言い換えて、またその発端を漫画においては『ぼのぼの』(いがらしみきお)に見て取ります(いがらし自身が「物語は終わった」と発言していることも大きいようですが)。

[……]日本のマンガにおけるポストモダンの起点を、一九八六年六月の『ぼのぼの』の連載開始に求めることは、じゅうぶん可能だろう。キャラがテクストから遊離しだす時代的な指標として、『ぼのぼの』の連載開始を見ようというのである。このことは同時に、日本のマンガという表現空間への「モダン/ポストモダン」という分割の導入を意味し、日本マンガにおける「モダン」の存在こそを指し示す。
 (伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』、NTT出版、2005、p.58)


その上で伊藤氏が問題になるのは、「ポストモダン」に先立つはずの「モダン」とは漫画においては何か、です。

 しかし、「マンガ」という表現は近代の産物である。たしかにそれは、文学や美術における「モダン」とは別の形態を取った、「奇妙なモダン」であったかもしれない。しかし、あくまでも近代は存在したのだ。そのうえで、はじめて「ポストモダン」は存立する。その意味では、東浩紀の『動物化するポストモダン』は一足飛びに過ぎ、そこに至る過程を後から埋める必要が生じている。その必要とは、マンガにおける「モダン」を指し示すことに他ならない。
 (同書、pp.59-60)


ここで、大塚英志氏が『アトムの命題』から主張し続けている、手塚治虫の功績が問題になります。
これも何度か触れてきましたけれど、戦前の漫画表現におけるキャラは本来不死で、銃で撃たれてもコブができたりするだけのギャグタッチの描写で済まされていました。ところが、手塚治虫は習作『勝利の日まで』で、「単純な線画」で描かれたキャラ「フクちゃん」が傷付き血を流すところを描いた、それ以来、日本の漫画のキャラは「傷付き、死ぬ身体」を持つようになった、というわけです。

対して、伊藤氏は同じく手塚の初期作品『地底国の怪人』を取り上げます。
この作品の重要な軸は、ウサギ人間耳男(みみお)が「人間」としてのアンデンティティを求めるストーリーにあります。
物語の後半、耳男は帽子を被って「ルンペンのこども」、カツラを被って少女技師「ミミー」と二通りに変装し、主人公のジョン少年を密かに助けます。そして、最後に正体を明かされ、「ジョン、ぼく人間だねえ……」と言いながら死んでいきます。

 だが、この場面で耳男/ミミー/ルンペンのこどもの三様が描かれるということ、すなわちここでの耳男の描写が、身体性を欠いているということに気づかなければならない。ここでは、キャラが単純な線画で構成されていることが逆手に取られている。耳男はウサギである。顔には白い(おそらくは白であろう)毛が密生しているはずだ。
 もしここに少しでも写実的に身体を創造させるものがあったならば、この場面は成立しない。耳男/ミミー/ルンペンのこどもの三様がカツラや帽子といった「描かれたもの」の有無で可変的に決められているということは、とりもなおさず「ただの線画」が、あたかも実体を持っているかのように実在感/生命感を持ってしまうという、私の言葉でいう「プロトキャラクター性」を利用したのであるのは間違いがない。つまり、臨終の床にある耳男は、一五一ページの二コマ目までは、「キャラ」なのである。しかし、それは次のコマで一気に反転する。耳男は「人間」として死んでいくのである!
 (同書、pp.134-135)


かくして、伊藤氏の議論によれば、内面性と傷付き死ぬ身体を持ち、「『人格』を持った『身体』の表象として読むことができ」る「キャラクター」が成立したのは「マンガにおけるモダン」の始まりで、それはやはり手塚に求められるわけですが、それは実は身体性を欠いた「キャラ」に依拠していた、というわけです。すなわち、「キャラクター」の成立は「キャラ」の隠蔽の上に成り立っていた、とされます。
このようなキャラクター(あるいは人間)に対するキャラの先行性、という議論は、東氏の立場にも近く、東氏も共鳴します。

 伊藤の分析が『地底国の怪人』の読みとしてどれほど妥当なのか、またほかの手塚索引やマンガ表現一般にまで拡張可能な議論なのか、専門でない筆者には判断できない。しかし、もし彼の議論が妥当なのだとすれば、大塚の弱点は手塚の読解にまで遡ることになる。
 いくども繰り返しているように、大塚のキャラクター小説論の中核は、手塚が導入した(と大塚が主張する)キャラクターの「記号でも身体でもあるという両犠牲」にある。大塚はキャラクターの両義性を肯定し、そのメタ物語性を否定していた。ところが、伊藤はここで、まさにその両義性こそが、手塚においてすでに、メタ物語的な想像力に依存し、しかもそれを抑圧することで成立していたことを示している。
 (東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』、講談社現代新書、2007、p.136)


さて、漫画に限らず、たとえば古いおとぎ話を考えてみると、『眠れる森の美女』のお姫様は、ある年齢になったら100年間も眠り続ける運命にあると知ってどんな葛藤をしたか(姫自身は自分の運命を知らされていなかったとして、両親たる王様と王妃様はどうだったか)、などといったことは一切描かれません。
そこでひとまず、前近代(プレモダン)においては内面性を持ったキャラクターは存在せず(少なくとも、十分に確立されてはおらず)、その成立が近代を特徴付ける、という話は理解できるものとしてみましょう(そもそもこの議論自体は大塚氏が柄谷行人氏の『日本近代文学の起源』から引っ張ってきたものですし)。

しかし、前近代(「キャラクター」の成立以前)に「キャラ」があり、それが隠蔽・抑圧されて「キャラクター」が成立したのが近代(モダン)であって、抑圧されていた「キャラ」がまた表面化してきたのが「ポストモダン」であるとすると、「ポストモダン」と大仰に言われているものは、単に「前近代の回帰」だということになります。
「ポストモダン」をどう定義するかは論者により結構色々ありますが、これで納得する人は少数でしょう。

一度「キャラクター」の成立した「近代(モダン)」を経由した上で初めて生じている事柄についての言及も、ないわけではありません。それは、'80年代以降、「マンガの『読み』の快楽において『キャラ』のレヴェルを中心に自足できる群と、テクストの背後に『人間』を見てしまう、つまり『キャラクター』としてしかマンガを読めない群とに分かれる」(『テヅカ・イズ・デッド』、p.118)という状況であり、その結果として、後者にはうまく解釈できない作品が出現している、という事態です。
なるほど、『テヅカ・イズ・デッド』はそもそも、「マンガはつまらなくなった」という言説を取り上げ、「なぜマンガ言説は、現状に対応できないのか?」(同書、第1章第1節表題)と問うことから始めていますから、それに対する答えとしてそれなりに筋が通ってはいますし、“価値観の多様化と相互理解の不可能性”ならば、いわゆる「ポストモダンの特徴」と言われるものに当て嵌まりもします。しかし、「それだけ(わざわざ「ポストモダン」という時代を「モダン」から区分するほどのものか)?」という想いは残ります。

まずポストモダンありき(「今はポストモダンだ」という前提)でそこから近代を考えようとする性急さが、モダン/ポストモダン両方に対する捉え方を貧しくしてはいないでしょうか。

小山昌宏先生(こう呼ぶのは、この人も本学に非常勤講師として来ておられたので)もこの点に疑義を呈しています。

 この言説は『TID』の「キャラ・キャラクター」論が、「モダン・ポストモダン」論に依拠しているのにもかかわらず、あいまいなまま、「キャラ論」を展開し、そこから「マンガのモダン」を語るという論理の転倒が見られるのである。
 (小山昌宏『戦後「日本マンガ」論争史』、現代書館、2007、p.162)


そもそも、「キャラ」と「キャラクター」は「密接不可分」で「どちらかだけということはあり得ない」にもかかわらず、なぜ一方(キャラクター)の成立は他方(キャラ)を「隠蔽」せねばならないのでしょうか。
たしかに、裏と表が同時に見えないように、不可分でありながら一度に片方しか見えないということはあり得ますが、「キャラ」と「キャラクター」がそういう関係であることは、はたして十分に論証されているでしょうか。
伊藤氏が一番それを説明していると思われる記述を見てみましょう。

 耳男の「死」が衝撃的たりえたのは、その「死」が「もっともらし」かったからではなく、キャラが「かわいかった」からである。その「かわいさ」とは、まさにキャラの持つ「プロトキャラクター性」の強度に他ならない。
 一方で、読者にあたかも臨終に立ち会っているかのような「現前性」を感じさせようとすれば、他方で、そこに生物としての身体が存在するという「もっともらしさ」は失われる。このようなパラドックスがある以上、一方が他方を隠蔽し、隠蔽することで温存する構造を取るのは必然である。
 (『テヅカ・イズ・デッド』、p.135)


ここで気付かれるのは、「もっともらしさ」と「現前性」という二種類の「リアリティ」の区別が、「キャラクター」と「キャラ」の差異に重ね合わされていることと、「キャラクター」にあって「キャラ」にないとされる二種類のもの――“身体性”と“内面性”が重ね合わされている、ということです。
生身の身体を「写実的に」描くこと(=「もっともらしさ」)は耳男は変装して活躍するという物語とも、彼の記号的かわいさとも相容れないのであって、ここで手塚はそれを捨て、記号的身体の「かわいさ」に訴えることで「現前性」を確保した、というわけです。
しかし、“身体性”と“内面性”はイコールなのでしょうか。
写実的身体を持たず記号的表現である=「キャラ」である=内面性を持たない、という等式に疑問はないでしょうか。

小山先生は両者の両立可能性を問います。

[……]「耳男の死が衝撃的たりえたのは、その死がもっともらしかった(物語性)のではなく、キャラが可愛かった(キャラ性)から」なのではなく、耳男が記号的身体(キャラ)となり、「可愛」くなったからこそ、ウサギのお化け(キャラクター)としての耳男の内面性を救出し、読者の感受性を刺激しつつ、物語性を補強する働き(衝撃的な死)を導いたのである。つまり「キャラ」(可愛さ)は隠蔽されるどころか、物語を支配したのではないか。耳男の死は、「キャラ」を「隠蔽」するどころか、逆に「キャラ」が物語を支配したまさに「瞬間」だったと考えることはできないだろうか。「キャラ」となった耳男が死ぬことで、その可愛さが読者の脳裏に刻まれることで、物語性もより高められたと読み替えることも可能である。
 (『戦後「日本マンガ」論争史』、p.164)


これはやはり、「キャラ」と「キャラクター」の先行性の逆転(キャラクターの優位)にも直接関わってくることです。

 大塚は、手塚以前にすでにディズニー的キャラクターを輸入した日本の漫画は、例えば、「ミッキーの二次創作」漫画『ミッキー忠助』(廣瀬しん平、昭和九年)にみられるように、日本のあまり可愛くないねずみのキャラクターが「ミッキーマウス」のキャラクター(着ぐるみ)を被ることで、「キャラ」を被る「キャラクター」の二重性(「キャラ」の発生)がおきたとしている(と読める)。ここで重要なことは、伊藤の「キャラ」を大塚は、「キャラ」(記号=図像・人格のようなもの)とはいわずに、一貫して「キャラクター」(人格)と読んでいることである。それはあたまかも、大塚が伊藤の「キャラ」は外部輸入されたキャラクターであり、手塚以前に成立していた「キャラ」は、すでに「キャラを被るキャラ」になることで、キャラクターであることを示唆しているように思えるのである。それは手塚以前に、キャラクターが表層的な「キャラ」を突き破り「不透明性・内面性」をかもし出していたということなのではないか(二重人格性)という深読みができるのである。
 (同書、pp.163-164)


つまり、内面性を持った「キャラクター」は元々存在していたわけで、それは「キャラ」によってサルベージされた、というわけです。
どんでん返しは一度とは限らない。

そもそも、伊藤氏が「キャラ」を「人格・のようなもの」と定義している時点ですでに、「キャラ」こそが「(人間の)人格」を前提していることは示されているように思われます。


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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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