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批判の意義

卒業式と言えば紅白饅頭。これも同窓会からいただきました。

後輩たちと実技の佐藤先生からは花束も。我が家には花瓶などないのでこんな生け方になりましたが…
花というのは売っている時点では開ききっていないので、1日経った今の方が見事に開ききっていますね。まだ蕾もありますが。

卒業式 花束

 ~~~

さて、昨日の追いコンでは、私がブログに書いてきたことを巡ってある程度の議論もありました。
それに関して今改めて、というわけでは必ずしもありませんが、少々書きます。

よく書いてきた東浩紀氏への批判に関しては、私の論点は二つあったと言えます。
一つは、まったく哲学的な立場の違いに基づくもので、東氏の言っていることを認めるとして、根拠の弱い部分があり、その根拠付けにおいて氏の触れていないこと、あるいは氏の表向きの立場とは違うことを前提せねばならないのではないか、というものです。
この場合、批評としての有効性は別問題です。

「相手の言っていることに従うとすると、相手の論の内的整合性という点で、これはおかしい」という形(「内在的な批判」と言います)で、異なる立場の相手を批判することで自分の立場を打ち立てるというタイプの立論です。

もう一つは批評としての面に関わるものです(こちらも内在的な批判を心がけてはいます)。
たとえば、“キャラを一つのまとまりを持った存在ではなく、「萌え属性」の束と考える”といった前提を掲げる限り、東氏が「自分の理論で説明できる」と称していること(たとえば、『エヴァンゲリオン』以降に“綾波系キャラ”が量産されたこと)でさえ説明できなくなってしまうのであって、そうした前提を批判しておかなければ、氏の論の批評理論としての有効性も失われてしまうのではないか、ということです(「続・「萌え」考」参照)。

東氏も『ゲーム的リアリズムの誕生』においてはすでにキャラを「萌え属性」の束と考えてはいないようにも見えます(少なくとも明言はしていません)し、「データベース」にしても生きた活動を含む、ダイナミックなものと考える余地はあるのかも知れません。
また私も、批評における「ゲーム的リアリズム」といった概念の意義を否定するものではありません。氏の論を援用したこともあります。
しかしなればこそ、氏の理論から有効なものを汲みだすためにこそ、それに反する解釈を導きそうな記述は批判しておかねばなりません。

洞察を語り、理論化するに当たって、用いられる言葉が「十分に適切」ということはなかなかないもので、思想家というのは生涯を通じて「言い直し」を余儀なくされます。
ところが、用いられた理論的タームの一見した明晰さに引き摺られて、洞察の重要な部分を見失ってしまうということがありがちなものです。それは理論を語っている本人でさえそうです。
ですから、「良いところを取り出すため批判する」という過程が必要なことは多いのです。

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テーマ : 芸大・美大・その他美術系学校 - ジャンル : 学校・教育

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T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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