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クオリアと多元世界と自分――『紫色のクオリア』

バスが片道200円程度というのも、繰り返すと安くはありません。
当初はそもそも週に何日大学に通うことになるかも不明だったので、あまり考えていなかったのですが…何だかんだであちこち出て回っていますからねえ。
まだ開講されていないところやら色々で、今日は1コマだけでしたが行ってきました。
仮に何時間も空いていたとしても、遠出するのもコストなんですよね。

 ~~~

さて、もう3年前に出たライトノベルですが、私が買って読んだのはだいぶ遅れて去年のことかと思います。

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(2009/07/10)
うえお 久光

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イラスト担当の綱島氏の手によってコミカライズもされていますね。

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(2012/02/27)
うえお 久光

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この物語の中心となるのは、「人間がロボットに見える」という少女・毬井(まりい)ゆかりです。
語り手はその友達の少女・波濤学(はとう まなぶ)、通称「ガクちゃん」ですね。
この「ニンゲンがロボットに見える」という特性ゆえの変わった言動を放ち、いじめられたりの軋轢もあるゆかりについての短い記述が重ねられて、毬井ゆかりという人物について紹介されるところから物語は始まります。

タイトルにある「クオリア」とは、茂木健一郎氏などが盛んに言っていて有名ですが、感じられる「質」のことですね。
「赤」というのは「青」や「黄色」や「緑」等々からは区別される色ですし、物理的には波長700nm程度の光、と説明することもできます。しかしそれ以前にまず我々は赤いものを見る時、「赤いという感じ」を抱きます。
さて、色盲などでもない晴眼者は皆、リンゴとポストがいずれも「赤い」ということが分かり、他にも赤いものを見れば赤いと認めることができます。しかし、私も他人も同じように「赤いという感じ」を抱いているのでしょうか――これがる哲学的議論としての「クオリア問題」です。
そして本作では、ゆかりの「ニンゲンがロボットに見える」ことがこのクオリアとして捉えられます。

「簡単に説明するとね、赤いりんごを見て、それが赤いということを『知る』ことはできても、『感じる』ことのできない存在、それが哲学的ゾンビ――とあたしは理解しているわ」
「はぁ」
「哲学的ゾンビは、外見や行動からでは普通の人間とまったく区別できない存在。ゾンビって言葉で勘違いしないで。彼らは『動く死体』なんかじゃなくて、ちゃんと感情を理解する。笑うし、泣くし、怒りもするし、りんごを見て赤くておいしいそうだという。
 ただ、彼らは、本当には、『赤く』も『おいしく』も感じない。
 なぜなら彼らは、『赤さ』や『おいしさ』とかの『具体的かつ感覚的なイメージ』を、もたないから。
 (……)
 (うえお久光『紫色のクオリア』、アスキー・メディアワークス、2009、p.70)


この説明はいいのですが、実は、これをゆかりの“能力”と結び付けるのはクオリア問題に対する理解としては多少難ありです。
というのも、文中で言われているように「哲学的ゾンビ」は、「赤いという質」を感じはしなくても、それを感じているものとまったく同じように振る舞うのであって、「外見や行動からでは普通の人間とまったく区別できない存在」だからです。
そのため、ここでは「そもそも私の感じている質と他人の感じている質が『同じ』とか『違う』とかいうのはどういうことか。それは問いうることなのか」ということが問われます。

これに対して、毬井ゆかりには機械は機械として見え、人間もロボットとして見えるのであって、このことは本人の言動にもはっきり表れています。さらに、ゆかりは他人の「性能」を見抜いたり、(この引用箇所の後で明らかになることですが)人間をロボットとして扱って干渉することすらできます。
つまり、ゆかりの能力は(少なくとも、人との違いという意味では)検証可能なものであって、分析哲学におけるクオリア問題と必ずしも同じ地平にはありません。

しかし、そうした解釈ゆえに、本作は「クオリア問題」の意味論的な次元とは別の問題圏を開いていくことが、読み進むと分かってきます。

(以下はより重大なネタバレあり)




本作は全2章+エピローグという構成になっていて、第1章に当たる「毬井についてのエトセトラ」ではまず、上述したような毬井ゆかりの紹介が行われますが、やがて事件が起こります。
波濤学はある事件から、ゆかりに「修理」され、左腕に「パーツ」として携帯電話を組み込まれることになります。

第2章「1/1,000,000,000のキス」では、この左腕に組み込まれた携帯電話によって平行世界の自分と通話可能になった学が、急な事故で死んだゆかりを救うべくリプレイを繰り返す平行世界ものへと物語が発展していきます。
途中で自分の人生を振り返る奇妙な記述が差し挟まれて違和感を抱かせつつ、やがて壮大な状況が明らかになってくる展開は圧巻です。
と同時に、「こんな世界はいらない」とリセットして、視点が別の世界に移る様は背筋を凍らせるものもあります。

ここでは量子力学が引き合いに出されて、それがクオリアの件と結び付きます。
つまり、波動関数の形で重ねあわされている無限の可能性が一つに収縮するのは「観測することによって」というのが一つの(広く流布している)量子力学の説明ですが、この「観測」とはつまり「クオリアを感じること」であって、クオリアこそが波動関数を収縮させるものなのではないか、というわけです(量子力学については私の過去記事「量子力学とシュレディンガーの猫」を参照)。
もっとも、「他の可能性」なるものがこの世界とまったく同じ実在性を持つ「平行世界」として存在しているのか(つまり、量子力学の解釈として多世界解釈を採用するのかコペンハーゲン解釈を採用するのか)については留保していますが。

 いままで話していたのは『可能性のあたし』なのか、それとも『平行世界のあたし』なのか、中学のときからずっと悩んではいるが、いまだに結論は出ていない。
 どちらにせよ、二度と同じ相手に電話は通じない以上、同じことだけど。
 (同書、p.218)


もっとも、実在するのではない単なる「可能性」と話をするとはどういうことか、それは平行世界と話すよりさらに想像し難いことのように思われますが――

いずれにせよ、いかなる手を尽くしてもゆかりを救えないことを知った学は考え方を変えていきます。そしてついに――

 この世界そのものが、ゆかりの――いや、あたしの敵なのではないか?
 それを運命と呼びたければそう呼んでもいい。
 とにかく、そういう『世界のなにか』が、世界の大多数とは異なる見え方をするゆかりの死を望み、あたしの邪魔をしているのではないか?
 そう、あたしの根本的な間違いは、現実を『確定』できるのがあたしだけだと考えたことだ。
 冷静になって考えれば、あたしにできることなら、他の人間にだってできるはずなのだ。
 少なくとも最初のうちは、あたしは普通の人間――凡人だったのだから。
 コペンハーゲン解釈で説明するなら、――いくらあたしが『ゆかりの生きている世界』という結果を『確定』しようとしても、この世界を『観測』しているのはそもそもあたしだけではない。この世界に生きるすべての人間が同じように『観測』しているはず。その総和が多数決を取り世界を『決定』しているのなら、たとえ無限の可能性を持とうともあたしは少数派であり、『人間がロボットに見える』というゆかりは普通の人間にとって排除すべき異物なのではないか? アリスがいうような、――ある種の『天才』のように。
 だからあたしの行動は、なにをしてもうまくいかないのか?
 そう、いくらあたしが猫の入った『箱』を開けても、そのあたし自身が『箱』に入っている限り、猫の生死を『確定』したと思いこむだけで、あたしを閉じこめているの者が箱を開けて『観測』した瞬間、『確定』した、と考えていた結果を変更されてしまう。あたしがなにをしようとも、ほかのだれかが『確定』しなおす、それあ、いまのこの状況なのではないか――
 (同書、p.253-255)


そしてついに学は、究極の物理理論――「万物理論」を手にしてそれを超え、何者にも観測されずに宇宙を外から観測する存在になります。

 そしてあたしはようやく、これまで気づいていながら本当にはわかっていなかったことを、あらためて、理解する。
 ――宇宙は、まだ『確定』していなかったんだ。
 これまでずっと、宇宙は『波束が収縮』しないままだった(または、多世界と干渉し合ったままだった)。猫を閉じ込めた箱を、さらに閉じ込めた箱のように、それをさらに覆った箱のように、それをさらに閉じ込めている箱のように――あたしたちはその『系』に含まれていたから気づかなかっただけで、ずっと、世界は『確率の雲』状態のままだった。あたしたちには自覚できないだけで、確率的に存在しているだけだった。
 なぜなら人間は、何を観測していいか、わからなかったから。
 だが、たったいま、あたしは知った
 (同書、p.266)


そうして宇宙を「確定」させる「神」のごとき存在となった学はゆかりを救った――と思われたのですが、にもかかわらず学の全能性は破れ、そしてゆかりは告げます。

「あたしの運命を変えられるのは――変えていいのは、あたしだけで、ガクちゃんに、そんな権利はないんだよ?」
 (同書、p.284)


そして、宇宙の外にある存在となってしまって、もう自分に戻る方法が分からない――もう自分を忘れてしまったという学にゆかりは言うのです。

「だからぁ、思い出さなくていいの! 資格もなにもいらなくて、そもそも他人にはなれなくて、ガクちゃんは、いつだってガクちゃんなんだから。……あたしが、どうしたってあたしにしかなれないように。――この見え方しかできないように」
 (同書、p.292)


かくして、クオリアを他者と決して共有できないことこそ“自分が自分である”ということであり、その「自分」の核にあるのは「運命」である、ということになります。

私は普段「一つの生」の優位を主張してきましたが、今回は多元性を極限まで押し進めて見せてくれた本作に最大限の敬意を表し、その結果がどこに至るかを見ておきたいと思います。
ここで二重の多元性が持ち込まれていることにお気付きでしょうか。
まずは、決して共有できないクオリアによって区別される人間たちの多であり(人間以外の存在がどこまでクオリアを持つ存在なのか、本作の設定では定かではありませんが)、もう一つはそのそれぞれが送りうる「無限の可能性(あるいは平行世界)」の多です。
ここで知識のある方には、事態がライプニッツの「モナド論」に肉薄していることがお分かりかと思いますが、そちらの解説には深入りしますまい(私も別に詳しくありませんし)。
ただ、ライプニッツにおいては、無数の可能性の中からただ一つが現実になるようにしているのは「神」でした。
実は量子力学に関する一切の知識などからは独立して、「物事が他のようでもあり得たのなら、なぜこのように決まったのか」という疑問は必ず生じます。だから、その答えが「神」とでも呼ばれる他ないことは、それなりに理に適ったことなのです。
しかし、『紫色のクオリア』は神をも否定し、かくして無限の可能性は互いに等価でいずれにも「確定」しないままであるという結論のみが残されたのです。
とすれば、「私とあなたが共に生きているこの世界」というのは、「私の無限の可能性の一つ」と「あなたの無限の可能性の一つ」がたまたま重なり合ったものだり、しかも可能性は無限であるがゆえに、その重なり方も無限にあるのです。

もちろん、無限にあるといってもそれらはあくまで全て「可能性」であり、不可能なことは起こりません。
ただし、『紫色のクオリア』において、学は「魔法(あるいは超能力)を使える自分」すら見出しますし、物理法則すら「観測」によって生み出されているという「人間原理」のことも触れられますから、人間という種の特性や物理法則でさえ「不可能性」を規定する壁とはなりません。
だからこそ、何か可能であり何が不可能であるかを規定するのはただ一つ「それぞれの者の運命」なのです。
自分は自分でしかあり得ないということが世界の究極の限界であり、無限の可能性の中でその「自分」の同一性を保証するのが「クオリア」なのです。

何者にも観測されず世界を観測して「確定」させる存在となったはずの学が、なぜかゆかりに見守っていることを知られ、話しかけられてしまうのは、自分は自分でしかあり得ないがゆえに、他者たちを包括する「神」にはなれない、ということに他なりません。

その他者と触れる経験が言葉であり、コニュニケーションです。
学は結局、ゆかりに自分の「守ろうとする」行為を押し付けるのではなく、「行ってほしくない」という気持ちを伝え、ゆかりに自分でその運命を変えてもらいます。

 ―――

最後に、今まで何度か論じてきた問題に繋げるような問いを提起してみましょう。
このような「クオリア」によって保証される「自分の同一性」とは、「キャラ」でしょうか。
言い換えると、毬井ゆかりは「人間がロボットに見えるキャラ」なのでしょうか。それとも、彼女の「キャラ」はむしろ、そうした設定とは別の、「大人しい系で独特のズレた発言をするけれど、芯は強い少女」という(ある種ありきたりの)辺りにあるのでしょうか。
これは結局「『紫色のクオリア』は“キャラが立っている”かどうか」という問いにかなりの部分帰着するわけでして、皆さんに自分で読んで問うていただくのが一番なのですが、私には実際のところ、事は結構微妙であって、「キャラ」という言葉はどちらの意味にも取られうるように思われます。


(ついで)
量子力学とか万物理論というモチーフに加えて、「私」というものに対する問いはグレッグ・イーガンを強く思わせますが、しかし本作のモナド論的な味わいはイーガンとも少々赴きを異にする印象でした。

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プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

実名での仕事
7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
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