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運命、神、日本人

一気に書ききったつもりでもまだまだ足りないことに思い当たるもので、昨日の補足行きます。
もっとも、作品論からはかなり遠ざかりそうですが、引き続き『紫色のクオリア』のネタバレを含みます。


まず、「運命」についてもう少し論じておいた方が良いかも知れません。
もちろんこの語も、場合によって意味するところには開きがあります。
たとえば『魔法少女まどか☆マギカ』は「友達を救うためループを続ける少女」「孤独と友情」等、『紫色のクオリア』と共通する要素の多い作品ですが(それゆえに『まどか☆マギカ』が放映されてから改めて『紫色のクオリア』が注目を集めたという事情もあったようで、私が去年になって『紫色のクオリア』に目を止めることになったのも――最初からそのつもりではなかったものの――偶然ではなかったのでしょう)、このアニメの冒頭でキュウべえが「諦めたらそれまでだ。でも君なら運命を変えられる」と言う時、「運命」と言われているのは「ワルプルギスの夜」の襲来とそれによる滅びという一事件です。
ここで「運命」という言い回しが出てくること自体、まどかを魔法少女に勧誘するためのレトリックである可能性が高いのですが、しかし一応にも作中の用語法に従うなら、『まどか☆マギカ』において「運命」が意味するのはせいぜい「超強力な魔女の襲来」といった(いかに避けがたくとも)偶発的な事件とその結果です。
そして、たとえワルプルギスの夜を退けても、遅かれ早かれ魔法少女たちを待ち受ける悲劇には変わりがないという意味で、「運命」よりも強力で決定的なものは「条理」です。
これは山川賢一氏も指摘するように、「厳密な法則性に従っている」ことを恐怖の対象とした『まどか☆マギカ』の特色をよく表しています。

これに対して昨日も述べたように、『紫色のクオリア』においては、物理法則すら「他のようであった可能性」があります。
したがって、運命というものがあるなら、物理法則の外にあるものです。

このことは『紫色のクオリア』がまさに「物事は他のようでもありえる」という物理法則たる量子力学を扱っていることと結び付いてきます(それ以外にも量子力学の解釈はありえますが、ひとまずそれは本作にはあまり関係ありません)。
ある原因があっても、結果はただちにそれによって決定されているわけではなく、無限にある可能性の中から確率的にしか決まらない――このことは、決定された運命などないということを示すのでしょうか。
そうとは限りません。物理法則が非決定的であれ、それどころか物理法則が別様であってさえ、それを超えたところで「こうでしかありえない」ということが――少なくとも論理的には――考えられるからです。

 では、因果的な決定論が、次のように考えるとしたらどうだろうか。原因もまた、その前の原因によって、さらにその原因もまた、その前の原因によって決定しているのだから、「原因が異なっていたならば」という反実仮想は、ほんとうは実現しえない。どこまで遡っても「原因が異なっていたら」ということは起こりえないのだから、別様の結果もまた実現する可能性はなかったのだ、と。そうすると、どの項もすべて因果的に一つに決定されていることになり、因果的な決定論からは「別様の可能性」というものが消えてしまうのだろうか。
 そうではない。それでもなお、因果的な決定論には、別様である可能性が残るだろう。たとえ因果連鎖は、どこまで遡っても一つに決定されていて、別様ではありえないとしても、それは或る自然法則のもとでそうなのである。したがって、その自然法則自体が別の法則であるとしたら、因果連鎖自体っまた別様の連鎖でありうることになる。結局、自然的な必然性は、どこまでも別様の可能性(形而上学的な可能性)を背景として持ちうるのである。
 しかし、形而上学的な運命論の方はそうではない。そのような背景としての可能性がまったくないからである。つまり、運命論的な必然性は、可能性という背景をいっさい持たない。
 (入不二基義『時間と絶対と相対と 運命論から何を読み取るべきか』、勁草書房、2007、pp.230-231)


ただし、論理的にはともかく、この世界の中の全てを超えたところで一切を決定する運命というのは、この世界の中に生きる我々の与り知らぬものではないか、そんなものはあってもなくても同じではないか、という疑問はあります。
これは、何者にも知られることなくただ世界の全てを知る「全知の神」が、いてもいなくても影響がないのと同じです。
そうした「神」の死を告げた哲学者と言えばもちろんニーチェですが、彼の『ツァラトゥストラ』において、全てを見通す神は「最も醜い人間」を見て、人間への同情のゆえに死んだ、と言われます。これはつまり、何者にも知られず全てを見通す「隠れたる神」が自壊した、ということに他なりません。

『紫色のクオリア』においてもやはり、観測されずに世界を観測する「神」のごとき存在は不可能とされます。
そこで運命は存在しない、という世界観を取ることは可能でしょうが、しかしそもそも「避けがたい友達の死」という運命に対抗することを描いてきた本作は別の解答を提示します。
運命は各自に内属するのです。

ここで「運命」と「クオリア」が重なることはそれなりに意味があるのであって、たとえ理論的には「人間とまったく区別できないけれど、クオリアを感じていない“哲学的ゾンビ”」が可能であっても、「私がクオリアを感じている」ことは――証明のしようがなくとも――確かであるのと同様、このような各自に属する運命は、確かな事実なのです。
実際、そうでなければ、なぜ毬井ゆかりは確信をもって「自分の運命を変えられるのは、自分だけ」と宣言できたのでしょうか?


さて、ここまで何食わぬ顔で「神」と連呼してきましたが、ライプニッツの神もニーチェが否定した神ももちろん唯一神です(信仰上の神と「哲学者の神」にはまた違いはありますが)。
当然のようにこのような意味で「神」の語が使われることは注目に値します。

 言うまでもなく、ヨーロッパは、今でこそキリスト教信仰は盛んでないが、それでも文化の基盤としてキリスト教がいまだに受け継がれていることは疑いようもない。かの地で「神」と言ったら、人々はキリスト教の神をまずは思い浮かべるのであって、八百万の神を思い浮かべる人は皆無に等しい。他方、日本では、おそらく、神社か神棚にまつられた神を人々は思い浮かべるだろう。こうした宗教的概念は、異なる地域の思想を学ぶ上できわめて重要になることは誰でも理解できるだろう。古代ギリシア以来の伝統のなかで考えられている哲学の概念が翻訳だけでは日本人の理解にならないのと同様に、宗教的特徴をもつ中世哲学は、翻訳だけではとうてい伝えられない内容なのである。
 (……)
 実はキリスト教会から見て、日本は特別の国なのである。
 それはこれほどキリスト教の不況が失敗している国は、世界でもまれに見る国だからである。日本のキリスト教徒は、いまだに人口の一パーセント前後と言われる。
 (八木雄二『中世哲学への招待 「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために』、平凡社、2000、pp.10-11)


八木氏の著作は中世哲学の入門書としてはたいへん優れたものですが、日本人論には異を唱えたい。

私に限らず多くの評者が『紫色のクオリア』の学や『まどか☆マギカ』のまどかについて「神のような存在」(あるいは、必ずしも「全能でない」等の理由から「神のような存在ではない」)と言うことをためらわず、その他にも漫画・アニメ・小説等で「神」の出て来るものを見れば、かなりの確率で唯一神・創造神です。少なくとも説明なしに「神」と言えば唯一無二の存在がイメージされるという前提があります。
全能神を前提とした、「神がいるならなぜ悪や苦しみを放置しているのか」という問いも普通に通用します。
「神」が複数という設定の作品があれば、多神教神話をモチーフにしている可能性が高い、とも言えるかも知れません。
『ささみさん@がんばらない』が多神教的世界観を表すため、単数の場合でさえ、「わたしは『神々』になった」というように「神々」という複数形表現を用いているのは興味深いことです。欧文に翻訳するとおかしなことになりますが、少なくとも私には、日日日氏の言語感覚は的確であるように思われます。

日本でキリスト教の布教が失敗しているとしたら、それは「日本人はわざわざ信仰告白して入信の儀を行うという面倒なことをしない」という意味に留まるのではないか、という気がします。
日本人はたいへんにキリスト教を内面化しています。

もっとも、「自分が何を信じているのか知らず、それについて自覚することもない」というのは、それを反省的・学問的に理解する上では著しい障害になりうるという意味で、やはり日本人が西洋思想を「(学問的に)理解する」には壁があるというのは事実かも知れませんが……


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コメント

日本人がキリスト教の内面化に成功しているというのはどうかと思われます。

真の意味で日本人が信じているのは、「神」ではなく「天」ではないかと思うからです。その二者の間には重なるところもあれば、相違するところもあります。

キリスト教系の一神教では、基本的に神は「意思する能動的な存在」です。それを否定するものは異端者であり、スピノザ先生みたいに無神論者といわれて迫害されたりします。

それに対し、「天」は意思するともしないともいえず、日本人は「運命」を擬人化した存在であるということを意識的無意識的に理解したうえで「天命」だ、などといっているのではないでしょうか。

「神」を語るのになんのタブーもないのは、「天」と違って人格神はわれわれの作り上げた「キャラクター」であり、それゆえに普通の登場人物のごとく物語の中に登場させて、ごく普通になんでもやらせられるのではと。

われわれが「聖☆おにいさん」を当たり前のギャグ漫画として読めるのも、神を唯一神として信仰しているのではなく、単に「知識」として理解していることの証左ではと思います。

混ぜっ返すようでなんですが、日本人とキリスト教徒ほかの一神教徒とは、「神」についてのクオリアが決定的に違うのではないかとも思われます。(もちろんここで使っているクオリアというタームは比喩的なものです)

そうでもなければ「ふしぎなキリスト教」などという本があんなにバカ売れしているはずがありません。

ちょっとここらへんに違和感を覚えました。

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まとめteみた.【運命、神、日本人】

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T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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