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「文学」と「まとも」について――『僕の妹は漢字が読める』

ついこの間までは寒さを感じることもあった気もしますが、すっかり暑くなってきました。
騒音の問題もあって夜間は窓を閉めるよう通達があるので(ワンルームマンションでは隣が近いですし)、冷房のお世話になる必要が出てくるのも近いかも知れません。4月前半の電気代とガス代はそれぞれ1200円かそこらでしたが、これからまだまだ上がりそうです。

 ~~~

今回もひとまず引用文を。

 『ONE』〔美少女ゲーム〕を注目される作品にしたのは、そこに加えられた「永遠の世界」という特異な設定である。(……)多くのシナリオでは、主人公は最終的に「永遠の世界」へと引きずりこまれ、ヒロインを含む周囲の人物に存在を忘れ去られ、作品世界から姿を消してしまうことになる。主人公は、いくつかのシナリオにおいてのみ、ヒロインの忘却を阻止することに成功し、彼女の記憶を手がかりとして「永遠の世界」から戻ることができる。
 (……)幸せな日常に「永遠の世界」が侵入し、主人公を連れ去るという設定は、物語内の虚構、すなわち視点キャラクターの世界ではお伽噺でしかない。ところがそれは、物語外の現実、すなわちプレイヤーの世界を考慮に入れると、幸せなゲームプレイもいつか終わり、プレイヤーはゲーム機の前を離れるという、現実そのものの隠喩に変わる。
 (……)「この確信にみちた作劇に対して、「そんな世界などあるわけがない」と否定することはたやすい。しかし、一度バッドエンドによって「永遠の世界」に閉じこめられてしまったプレイヤーは、視点キャラのバカげた「妄想」が、いまやプレイヤー自身の疑いえない「現実」にほかならないと感じることになる」と佐藤〔心〕は記している。
 (東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』、講談社現代新書、2007、pp.209-212)


(……)一般にサブカルチャーの物語、とりわけオタクたちの物語を「批評」することは、きわめて難しい。なぜならば、さきほども述べたように、そこではすでに、制作される物語の多くが、最初から類型化と平板化を受け入れているからである。たとえば、もし読者が、主人公が「永遠の世界」から帰還する『ONE』の結末、登場人物の全員が救われる『EVER17』や『ひぐらしのなく頃に』の結末に注目し、それをご都合主義だと批判したいと思ったとしても、その批判はまったく意味をもたない。その物語がご都合主義的であることは、制作者も消費者もともに知っている。オタクたちの市場は、はじめからその自覚のうえに成立している。
 (同書、p.241)


しかし、「そんな世界などあるわけがない」という類の批判はオタク向け作品に限らず、SF・ファンタジー一般に言おうと思えば言えます。ハッピーエンドなら「ご都合主義だ」として批判したいという発想も、いったい何なのでしょうか。
もちろん、東氏のここでの目的は、自らの「環境分析的な読解」を「自然主義的な読解」に対置することであって、言いたいのは「自然主義的リアリズム」に根差した批評がオタク文化に対しては有効でないということなのでしょう。
ですが、そもそも「批評」が「自然主義的リアリズム」に根差しているのを当然のものと思うこと自体、「自然主義的リアリズム」がいかに限られた世界であるかに無自覚な態度であって、その点でそんな「批評」には批評性は限りなく乏しい、と言うべきではないでしょうか。
もし仮に万一、そんな「批評」がまかり通っていたとしたら、なるほど文学がつまらないのも当然だと思います。

要するに、オタク文化を相手にする場合に限らず、全く異なる価値観を掲げて「それに合致していないから駄目だ」と主張する批判(=「外的な批判」)は、ただお互いの前提の違いを強調するだけで届かないという意味で、もともと弱いものではないか、ということです。
私が「「自分の視点なら分かる」の錯覚」等で主張してきたのも、「それを当然のものとして享受する(「ど真ん中の」)鑑賞者」と「外から冷静な視点で批判的に見る者」という内外二分法が成り立たないこと、少なくとも批評性はそうした外的な態度に宿るのではないということでした。


そんなわけで長い前置きでしたが、昨年それなりの話題を攫ったライトノベルです。

僕の妹は漢字が読める (HJ文庫)僕の妹は漢字が読める (HJ文庫)
(2011/06/30)
かじいたかし

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何しろ、今では発売前に公式で本文の冒頭が公開されていることがしばしばありますが、本作は第1章(約50ページ)が丸々公開(こちらで閲覧可能)、そして内容が一部で話題騒然となりました。

物語の舞台は23世紀漢字の使用が廃止され、しかも「萌え」こそが「正統派文学」として扱われている未来の日本です。
主人公のイモセ・ギンは作家志望の高校生で、二人の妹(ギンは養子なので義妹)――1つ年下のクロハと、10歳のミル――がいますが、二人とも漢字の読める秀才です。
これだけでもなかなかインパクトのある設定ですが、問題は何と言っても「文豪」オオダイラ・ガイ先生の書く「文学作品」、『きらりん! おぱんちゅ おそらいろ』でした。
公式の立ち読みを読むのが一番ですが、

でたひと→きよし
きよし「おくれちゃうにょ」
 どうがサイトみてたら ねぼすけ←だめっこ
 いきなりちこくは やばっ
 こうえんぬけたら
 おんなのことごっつん☆
きよし「うあっ」
おなのこ「みゃあっ」
 わわわ でんぐりがえっておぱんちゅ きらり☆
 きらっ きらっ
 おぱんちゅ→おそらいろ
 きよしっこ てれっこ
 (……)
 (かじいたかし『僕の妹は漢字が読める』、ホビージャパン、2011、p.48)


この通称「オオダイラ文体」、原文では2ページくらい続きますがまあこの辺で。

とにかく第1章ではこうした世界観と登場人物が紹介されるのですが、しかし第2章の終盤で物語はもう一転、主人公たちが21世紀の平成時代にタイムスリップするストーリーとなります。そこでギンの(二次元における)初恋の人にそっくりな少女・弥勒院柚(みろくいん ゆず)に出遭ったり、その「ユズさん」のために奮闘したりしての帰還。最後は何者かによって過去が改変されてしまい、過去を再修正にしに向かうところで引き――と、いかにも『バック・トゥー・ザ・フューチャー』へのオマージュを意識した、良くも悪くも割と普通のSFでした。
2巻が解決編となります。

僕の妹は漢字が読める2 (HJ文庫)僕の妹は漢字が読める2 (HJ文庫)
(2011/10/29)
かじいたかし

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このストーリーを通して、23世紀の萌え文学に対する印象も再考を求められることになります。
後半の山場で、色々あってギンは、「くだらない」「低俗」と萌えを認めない高校の文芸部部長と対決します。

「この作品があなたの好みじゃないのは仕方ないです。でも、作品の表面だけを見て、ユズさんの気持ちまで馬鹿にするのは許せない! 『あにマジまにあ』にはユズさんの、お兄さんへの愛情が詰まってるんだ!」
 (同書、p.206)


「部長さん……時代が変われば文化も変わるんです。時代に合った衣を着せることで、古い作品も人気が出る。あなたはその衣だけで別物と判断してしまうんですか!」
 (同書、p.207)


「本質ですって? あなたが言う本質とはなんですか?」
 僕はありったけの気持ちをこめて、部長に言葉をたたきつける。
「作品にこめられた想い。強いて言うなら、人の心です!」
 (同書、p.208)


しかしこれは、冒頭で「萌えやパンチラのない作品は『ホミュラ賞』(23世紀の権威ある文学賞)にふさわしくない」旨を主張していたギン自身にも返ってくることになります。

「ふむ。では、我々もそうなってはいけないね」
 (……)
「いろいろなものがあっていいじゃないか。ものを創る。その熱意に貴賎はない。そして、作品にこめられた想いはなんであれ尊いものだよ」
 (同書、p.247)


それゆえ、本作を「ライトノベル批判」であるとか、「漢字の使用をやめた韓国への風刺だ」などと評するのは、単なる過剰読み込みではなく、本質的に見当違い、180度逆方向を向いています。
萌え文学もオオダイラ文体も「衰退」や「劣化」ではない――それがきわめて明瞭に主張されています。

実は、先に引用したオオダイラ文体の初登場箇所の直前に、オオダイラ先生が同じ内容を平成文(漢字あり)でも書いたものが登場します。

「遅刻だ、遅刻~」
 清は急いでいた。
 ゆうべ、夜遅くまで動画サイトを見たのがまずかった。
 すっかり寝坊してしまった。
 新学期そうそう、遅刻は良くない。
 全力で走る。
 公園をショートカットし、大通りに出た。
 そのとき。
 同じように走ってきた少女とぶつかった。
「うわあ」
「きゃあっ」
 倒れたはずみで少女のパンツが見えた。
 空色だった。
 清は慌てて、目をそらす。
 (……)
 (同書、p.44)


『きらりん! おぱんちゅ おそらいろ』は平成を舞台にした時代小説なので、「時代の雰囲気を出そうと思ったら、筆が乗ってついつい平成文学そのものを書いてしまった」(p.47)とのことですが。
これはもちろん、さしあたっては初見の読者にオオダイラ文体の意味が理解できない可能性を鑑みて同じ内容の平成文を並置するという意味があるでしょうし、さらにはオオダイラ先生が漢字の読み書きができるという設定は、タイムスリップした平成時代での活動のための布石でもあります。
しかし同時に、仮名ばかりで書かれた萌え文学をリードする人物が古文を読み書きできる第一級のインテリゲンチアである、ということを示してもいます。
だからと言って、オオダイラ先生は「読者のレベルに合わせて」「仕方なく」オオダイラ文体を書いているのでもありません。
これは外的な皮肉よりも、よほど核心を衝いた描写のように思われます。

他方で、オオダイラ先生がロリコンの変態で、23世紀基準でも警備員に連行されるくらいどうしようもない人格の持ち主であることは間違いありません。ですが、それは彼が教養あり、「いろいろなものがあっていいじゃないか」と常識人めいたことも言える知識人であることと矛盾するものではありません。
どう見ても宮崎駿である容姿(↓)と言い、オオダイラ・ガイこそ「インテリだが人格はおかしい」という伝統的な「文人=芸術家」のイメージを(戯画的な形で)体現したキャラクターであることが分かります。

僕の妹は漢字が読める オオダイラ

ただやはり、オオダイラ文体が“現代人が眉をひそめるような”ものとして描かれていることも事実です。
さらに主人公のギンは全てにおいて鈍いボケキャラで、21世紀人の読者から見て常識的な妹のクロハの方に同意したくなるのも仕様です。
実は、ライトノベル王道の定式に反して「主人公がボケキャラ」ということ、ついでに「未来では古文とは平成の萌え文学」というのも、同じノベルジャパン大賞で同期デビューの望公太『僕はやっぱり気づかない』と被っているのですが、選考した側がこの点をどの程度意識していたかは謎です。
ただ、『僕はやっぱり気づかない』の方は単純に「読者視点に近い主人公」の反転で、主人公の認識は全てにおいて同意すべきものではない(聞かれもしないのにバラしそうになるヒロイン達もまともとは言えませんが…)のに対し、本作は主人公のボケと未来文学をおかしなものとして描きながらも、「ではそれを笑っているあなたの立つところは何か」と問い返すような揺さぶりがあります。
もっとも、その辺がついて行きにくいところかも知れませんが。タイトルからして「ライトノベルのキャラは漢字が読めないほそバカになったのか!?」というインパクトは絶大で、ライトノベルをバカにしたい人が食いつきやすい仕様ですが、まさにそういう読者こそ冷や水を浴びせられることになるわけですから。


さて、私は上で本作をSFとしては「普通」と評しました。
ストーリーはあくまで王道というのもありますが、23世紀では日本の首相も「二次元総理」になっていたり、2巻では23世紀の学校の描写が挿入されたりと、未来社会の「とんでもなさ」を示す描写は随所にあるのですが、その割には日常生活のイメージは平凡な感がありますし、タイムスリップ先の平成時代で、秋葉原にて萌えグッズを探すもそんなものには詳しくない一般人が大多数で右往左往したり、思ったほど萌えが普及していないことに失望したり(萌えが広まったのは平成時代と考えられているので)するカルチャーギャップの描写ももっと色々書けた印象があります。
21世紀の高校に転入してズレを発揮したり文芸部の部長と対決する展開も、強引だがライトノベルとしては常識的です。
ましてタイムスリップに関する設定は、1巻では最後に少し説明されるだけですし。

2巻では仮名文字も消滅して記号と数字ばかりになった38世紀文学も断片的に登場するなど、その構想の壮大さには瞠目すべきものがありますが、その代わり細部は甘いという印象ですね。

ただし、これも全て単に想像力の不足とばかりは言い切れないことには留意しておきたいと思います。

 未来を知っているからこそ意外なこともあった。例えば、本についてだ。
 テレビのニュースで、これからは電子書籍が本格化し、紙媒体は衰退するでしょうと言っていた。大外れである。二十三世紀でもまだまだ紙の本が主流だ。
 先生から教わった話によると、一時期、電子書籍が主流になったものの、紙のコストが劇的に下がり、原点回帰したという。
 (同書、p.117)


それゆえ、23世紀でも紙媒体が主流であるのは意図的な設定です。むしろ、「未来では電子媒体主体で紙は使われない」等というのは想像力のないこと「今のまま」と大差ないこと、作者は見切っているのでしょう。
とは言え、小説の原稿を印刷して持って行ったり、「インターネットの辞典サイト」までわざわざプリントアウトして見る(p.236)のは、普通に考えれば妙ではあります(かさばるでしょうし)。しかし、特に後者に至っては「プリントアウトしなくても画面で見られる」のは現代でも当たり前のことであって、むしろ何も考えがなければかえってこんな描写は出て来ないと見るべきではないでしょうか。
まだ疑っている方は、次の描写をどうぞ。23世紀の学校教室の描写です。

「ごめんっ! 悪かったよおおおお。でもな、選べるわけないってば! 俺はふたりとも大好きなんだからっっっ!」
 教室中に男子生徒の涙声が響いている。クラスいちばんの人気者、スガワラ君だ。スガワラ君は美少女絵のポストカードを二枚机の上に置き、ぺこぺこ頭を下げている。
 ついに、二股がバレた。
 ――という設定のようだ。
 スガワラ君ほどの強者になると、ああやってリアルな修羅場シチュエーションを楽しむことができる。
 (『僕の妹は漢字が読める』2巻、ホビージャパン、2011、p.15)


この直後に「二次元先生」が登場するのに、電子媒体の二次元少女――つまりいわゆる美少女ゲームの存在に思い至らないはずはありません。むしろ『ラブプラス』のような携帯型ゲーム機用美少女ゲームが念頭に置かれているのではないでしょうか。
にもかかわらず「ポストカード」というローテクが使われているのは、あらかじめ設定や反応のプログラミングされていない一枚絵のみから妄想を展開できるスガワラ君の「強者」ぶりを示すために他なりません。

本の問題に戻れば、本作のテーマがまさに「文学」であることも鑑みて、ここに「書」と「知」に関する問題を見て取るのはやりすぎでしょうか。
「作品に過剰読み込みをしたがる人」も作中でギャグのネタにされているので、別にその類だと思っていただいても結構ですが、ただイモセ家は「代々言語学者や翻訳家を輩出してきた」家であって(だからその血を引く妹たっちは言語の天才)、古典の蔵書も多く、クロハはその蔵書庫で育ったがゆえに同時代の萌え文学に対し距離を取っている、という設定もあります。
これが書架に並ぶ書物ではなく電子データであったら同じことがあり得たか、と考えてみるのも、あながち無駄ではないでしょう。

そもそも、オオダイラ先生の作品が23世紀で圧倒的人気なのは事実のようですが、作者の人格が23世紀基準でもおかしいことも確かです。
ギンの「23世紀では~~が普通」という発言もどこまで文字通りに信じて良いものか疑う余地はあるのであって、「こんな未来ならこの辺の常識も変化しているはず」と思うのも先入観ではないでしょうか。ここにも揺さぶりがある可能性はあります。

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プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

当ブログはリンクフリーです。

引用もフリーです(出典明記していただけるとより有難いですが)。

コメントは返信しないことも多いですが、基本的にちゃんと読んでいます。

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7ページだけですが、拙稿が掲載されています。
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