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メディア形態の自覚

私は以前、『も女会の不適切な日常』についての記事(※ ネタバレあり)で、ループ物に関連してこう書きました。

単に「ゲーム的想像力」なるものが広まったと考えるだけでは不十分で、ゲームと小説という媒体の違いに自覚的になっている、つまりただゲームのモチーフを輸入して「ゲームのような小説」(大塚英志)を書くのではなく、小説的に読み替えて活かそうとする向きが存在しているのかも知れません。


そもそも、ゲームがゲームそのものの(リプレイという)構造をメタ言及的に扱ってループを描くのと、小説(あるいはアニメ、漫画 etc...)が「ゲーム的」なループを描くのとでは、自ずから意味が変わってきます。これはまずは媒体(メディア)の違いです。
だから「ゲームのような小説」は駄目だ、と言うのではありません。ただ、「ではゲーム的モチーフを取り入れて小説(orアニメ・漫画)を書く意義は何か」ということを問うて、活かす工夫をしないのであれば、「流行りモチーフを取り入れただけの二番煎じ、三番煎じ作品」という評価を免れはしないだろう、ということです(そもそも「ゲーム的」ループは美少女ゲームで生まれた分野だという定説に従うなら、他ジャンルは必然的に全て後追いになります)。

「現代においては現実がゲーム化している」とか、「“この人生”は他のようでもあり得た、という実存的な感覚が蔓延している」がゆえに、「ゲーム的なあり方が切実な問題となる」と考えるのなら、それも一つのアプローチです。
私は、理論的立場としてはおおむね「生の多様性」に対する「一つの生」の優位を主張してきましたが、現に「“この人生”は他のようでもあり得た」と感じる人がいるのであれば、それをテーマとすることに異を唱えたりはしません。

オタク文化のクロスジャンル性――メディアミックスが一般的であるとか、ライトノベルにしてもイラスト等でアニメ・漫画的イメージを喚起しているとか――はつねに指摘されることですが、だからといって各ジャンルの特性が軽視されて良いことにはなりません。
たとえば小説では登場人物が喋っているだけでも、アニメ化するならば何らかの映像を流さねばなりませんし、進め方のテンポやらBGMやら多くのことが問題になります。そこでメディアごとにいかなる工夫が求められるか、このブログでもすでにいくつかの例で語ってきたことと思います。

また、『魔法少女まどか☆マギカ』において、要所以外は端折ることでループを全12話中1回に押し込め、しかもループするのを主人公ではなく(いわば)副主人公のほむらにしたのも、アニメの特性を活かした好例でしょう。


そのついでで、今更ながら少々、入間人間氏の『昨日は彼女も恋してた』『明日も彼女は恋をする』に関係する話でも。

(以下ネタバレあり)



まずこの作品、上巻『昨日は彼女も恋してた』ではいかにもな『バック・トゥー・ザ・フューチャー』風ストーリーで、男女カップルがタイムトラベルし、子供時代の自分に出会う話を二人の視点から交互に描いている……と思われたのですね。
しかし、実はこれが全てミスリードで、本当は二組のカップルの、それぞれ別のタイムトラベルを描いていたのでした。
男視点のタイムトラベルの結果として改変された世界が女視点のパートとなります。
ルービックキューブ型の時計など、伏線はあったのですが……いや見事に騙されました。

そんな中、東浩紀氏によるあるゲームの紹介を見て、構造的な類似に思い当たりました。

『Ever17』は、近未来の日本を舞台として、事故のため海中テーマパークに閉じ込められた主人公たちが、脱出を図りながら事故の原因を探るミステリ仕立てのアドベンチャーゲームである。(……)
『Ever17』は、一群のメタ美少女ゲームのなかでも、ユーザーの評価がとりわけ高い作品である。その評価は、この作品が仕掛けた巧妙なトリックに起因している。
 それはつぎのようなトリックである。『Ever17』の物語は、主人公がテーマパークに行く場面から始まる。しばらくシナリオを読んでいくと、事故が起き、主人公はほかの人物とともに海中に閉じこめられる。そこでプレイヤーは、二人の視点キャラクターからひとりを選ぶことを迫られる。一方の語りは「おれ……」で始まり二〇代の青年を、他方の語りは「ぼく……」で始まり一〇代の少年を思わせる。
 (……)
 この選択は、多くのプレイヤーには、同じ時間を共有する二人の人物の片方を選んだように感じられる。というのも、そのどちらを選んだとしても、続くシナリオ群には同じような人物が存在し、同じような事件が展開していくからである。しかも、視点キャラクターとして青年を選んだシナリオ群ではウィンドウのなかに少年の立ち絵が、視点キャラクターとして少年を選んだシナリオ群ではウィンドウのなかに青年の立ち絵が表示されている。したがって、それぞれを読むプレイヤーは、そこに表示されている人物が、もうひとつのシナリオ群では視点キャラクターになっているのだろうと、自然に推測してしまう。
 ところが実際には、二つのシナリオ群は、後述のように十七年の年月を隔てた異なる事件を描いている。
 (東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』、講談社現代新書、2007、pp.218-220)


所詮、ゲームの内容についてはこの伝聞のみに基づいている以上、言えることは限られますし、まして影響関係があるのかどうかは知る由もありません。他にも影響源はあり得ますし、入間氏の叙述トリック好きも当初からなので、なおさらその点は微妙です(入間氏の作品には結構ゲームネタも多いので、可能性はあるのかも知れませんが)。
ただ、直接の影響関係はどうあれ、「時間移動に関わる設定で隔てられた異なる二つの物語を、同じ物語を二人の人物から描いているように見せている」という概略の比較は可能ですし、影響源はどうであれ、この点に関して『昨日は~』『明日も~』にはループ物の影が見えないではありません。そして、もし関係があるならなおさら、ゲーム色、いやそもそもメタ色を脱色していることが注目されます。

『Ever17』において錯覚を生じさせるのは、美少女ゲームのプレイヤーは「視点キャラクターが不可視であることに慣れている」(同書、p.220)ことによりますが、入間氏の作品の場合視点人物のみならず周りの人物も違っているわけで、まったく文章でなければ実現不可能な叙述トリックです。そもそも、後者ではタイムトラベルはメタ的な性格をほぼ持っていません(タイムマシン開発者の松平が『バック・トゥー・ザ・フューチャー』を現実化しようとしていることは執拗に自己言及されますが)。

何しろ、そうしたトリックを利用して「キャラクター視点とプレイヤー視点」という「分裂した二つの視点をもういちどひとつの物語へと統合してしまう」(同書、p.221)という『Ever17』の仕掛けをそのまま小説に持ち込んでも、あまり意味をなさないことは明らかです。たとえシナリオが一本道であっても自分でボタンを押して操作するゲームなればこそ、プレイヤーは「自分がメタ的な存在として介入している」気分を味わえるのですから。
ならば……ということなのかどうか分かりませんが、タイムトラベル・ミステリとして純化させた入間氏の手腕はきわめて小説という自覚的で、卓越したものであったように思われます(元より入間氏は文章表現にこだわって、イラストと相克することもあるタイプでした)。
別にメタなら優れているというわけではありませんから。

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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