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君の正義と俺の正義は違うか

白倉伸一郎氏は、「仮面ライダーは正義の味方」なんて台詞は「平成ライダーでは言えない」から、その台詞に辿り着くために映画『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』の90分をかけたのだ、と言っていました。
しかし、『仮面ライダーフォーゼ』には「仮面ライダーは正義の味方のはずでしょ!」という台詞がありました。
これは、『フォーゼ』世界においては都市伝説として「仮面ライダー」が存在する、という設定によるもので(「過去のヒーローが出ることを売りにはしない」とは塚田プロデューサーも明言したことですが、映画『MOVIE大戦MEGA MAX』では本物の「栄光の七人ライダー」(1号からストロンガーまで)が登場します。ただ、彼らが過去に放送された「仮面ライダー」と同じ物語を持つヒーローなのかどうかは不明な点もありますが)、「伝説」としての「正義の味方」に依拠することでこの台詞も可能になったというわけです。
ただし、そう問われた仮面ライダーメテオ(朔田流星)はこう答えます。

「君の正義と俺の正義が一致するとは限らない」

これは相対主義のようにも取れますが、しかし「一致するとは限らない」と「君の正義と俺の正義は違う」の間には隔たりがあります。
ここで、以前にも引用したところと重複しますが、『リトル・ピープルの時代』の『仮面ライダーW』論を引用してみましょう。

 そして本作〔=『仮面ライダーW』〕の孕む厄介さ厄介さとは、この「小さな正義」への縮退――最適回と言ってもいいだろうこの縮退によって、ほぼ現代における「暴力」というもうひとつの主題についても大きくそのアプローチが制限されてしまっていることだ。本作における怪人=ドーパントとは、ガイアメモリと呼ばれる特殊な外部記憶装置を乱用した一般市民が暴走した姿のことだ。仮面ライダーWはこの怪人たちの使用するメモリのみを破壊し、決してその身体を傷つけない。仮面ライダーWは、自らが暴力の主体であることを決して引き受けない。仮面ライダーWはあくまで市民を「正常な」状態に復帰させるだけなのだ。ガイアメモリ=自分の外側にある商品を消費し、アイデンティティを確認することは、本作の世界では「異常」で正されなければいけないことなのだ。
 このひとつの、ほとんど管理社会的と言ってもいい「ゆるぎない正義の」記述を可能にしているのはそこが「風都」というひとつの価値観に規定されるテーマパークの内部だからだ。しかし、そもそも現代における暴力の問題とは、こうした小さな物語に回帰し、小さな正義を掲げる者(共同体)の乱立が生むものだったはずだ。風都の正義は、前提として他の街の正義とは異なるのだ。だが、風都以外の街を決して描かない『仮面ライダーW』は、リトル・ピープルの時代に渦巻く正義の問題を半ば確信犯的に排除している。
 (宇野常寛『リトル・ピープルの時代』、幻冬舎、2011、pp.350-351)


変身して強大な力を得る上に精神に影響を受けて平気で凶行を行う人間になっていく――つまり麻薬と銃器のセットのようなものを取り締まるのを「管理社会」と同一視するのも短絡甚だしく思われますが、最大の問題は、「前提として他の街の正義とは異なる」と断言してしまっていることです。これは「一致するとは限らない」とはかなり違います。
それでも、この論が正しいと仮定してみましょう。一つの街の「小さな正義」に留まらない正義(『W』において描かれていない正義)とは何でしょうか。宇野氏は以下のように述べ、

(……)こんな時代だからこそ〈あえて〉「正義」というファンタジィが必要なのだという再帰的な物語回帰としての「正義」は平成「ガメラ」「ウルトラマン」にも確認できる態度ではある。
 (同書、p.249)


その注でさらに、こう書きます。

 90年代における物語回帰の例としては、1996年発足の「新しい歴史教科書をつくる会」が挙げられる。ポストモダニズムを通過した彼らは、国民国家の公共性を維持するためには(それがたとえ偽史であったとしても)個人のアイデンティティを国家に預け得る物語の教育が必要だと(メタレベルにおいて)主張した。当時同会の宣伝塔を務めた小林よしのりの「物語を語れ」というアジテーションは、この再帰的な物語回帰の性格を端的に表している。こんな時代だからこそ「あえて」というメンタリティが、彼らの態度を支えていたのだ。
 (同書、p.259)


「物語る」ことと「捏造する」ことを同一視している時点で、これはあまりにもことを矮小化した事例です。
このような適当とも思われない例が出てきてしまうのは、この例そのものの内容と、引用文中に二度も「国家」が出てくることからも分かる通り、宇野氏が言う「(大きな)正義」が国家レベルのものだからです。

しかし、国家は大きくともやはり共同体であって外部に敵を要求すること、そして共同体が大きいほどにその間に発生する暴力の被害は大きいということが、二度の世界大戦の教訓だったのではないでしょうか?
そう考えると、「国家レベルの正義」が成り立たず、「街」レベルの「小さな正義」しか成り立たないというのは、そう困ったことなのか、という気がしてきます。
現代の問題とは、本当にその程度のことだったのでしょうか?

宇野氏の理論的立場に戻って考えると、国家を擬人化した存在である「ビッグ・ブラザー」は「壊死」し、私たちの誰もが「リトル・ピープル」(=権力の行使者)であって、「支配する権力と支配される私たち」という対立(村上春樹の言う「壁と卵」)という図式は成り立たないのが現代だ、というのが氏の主張でした。
しかし、「私たちの誰も」、つまり個人が権力であるのなら、「街」レベルの規模であれ、複数の個人の間に共通の正義が成り立つ保証はありません。しかし「街」レベルの正義は当然成り立つものとした上で、もっと「大きな正義の不在」のみを問題としているところに飛躍がないでしょうか(しかし、街レベルの正義が確かに成り立ってしまっていることが『W』成功の要因でもあります)。

さて『フォーゼ』に戻ると、流星の目的は、意識不明になっている友人・井石二郎(いせき じろう)を助けることでした。そのため、彼は「反ゾディアーツ同盟」のタチバナに命じられるまま正体を隠してメテオとして戦い、アリエス・ゾディアーツを探していたのです。
そのため、ホロスコープスに覚醒する見込みのあるゾディアーツを守ってアリエスの出現を促そうとしたのが、フォーゼとの対立の原因でした。

さて、第31話にてついに、人間の生命活動を操り眠らせることも目覚めさせることも自在にできるアリエス・ゾディアーツが登場します。
ここでタチバナが流星に下した命令は「フォーゼと協力してアリエスを倒し、そのスイッチを回収する」ことでした。アリエススイッチを入手して研究すれば、二郎を目覚めさせる方法も発見できるかも知れない、というのです。
しかし、研究してもその方法が見付かる保証はないと聞き、流星は焦ります。他方、今活動しているアリエス・ゾディアーツの力を借りれば、二郎を目覚めさせることは確実にできるのです。
結局、流星はアリエスと手を組み、フォーゼと戦って、弦太郎を絶命にまで追い込みます(この命令違反によりタチバナがメテオの返信を解除して、ようやくその正体が皆に知られることになります)。

かくして流星は二郎を目覚めさせることに成功するのですが、しかし二郎は「回復することを拒否しているかのよう」に、目覚めても身体は回復しません。
“そんなことをして助けられることを望んでいなかった”からでしょうか? いえ、二郎は自分が助けられた詳しい事情を知りません。彼が見たのは、自分を助けたはずの流星の「辛そうな顔」だけです。
ここでようやく流星は「俺は弦太郎と友達になりたいという自分自身を裏切っていた」と気付き、メテオへの変身権限を失ったまま、アリエスに捕まった「仮面ライダー部」の皆を助けに向かい、他方で弦太郎も「友情の力」で発動した最後のスイッチ、コズミックスイッチの力で蘇生して、皆のところに向かい、最強のコズミックステイツに変身してアリエスを倒します。

ここで弦太郎は流星に言うのです。

「許すも許さないもねえだろう。お前は自分のダチのだめに戦って、お前が勝った。それだけだ」

ただ仲良くするのではなく、対立するところがあればこそ正面からぶつかって受け入れる、それが弦太郎の「友情」でした。

ここで注目すべきは、結果だけ見れば、流星はアリエスと組んで二郎を目覚めさせ、その後で「仮面ライダー部」の仲間として、メテオとして復帰すると、これ以上ないほど「上手くやって」いるということです。
逆に、弦太郎と協力してアリエスを倒しても二郎を目覚めさせる方法が見付かったという保証はありませんし、そもそもアリエススイッチは結局ヴァルゴ・ゾディアーツに回収されています。
弦太郎が流星の事情を知っていたとしても、やはりタチバナの命令通りに協力してアリエスを倒すことを選んだかも知れません。
両者の「正義」は、最後まで一致したとは言えないのです。ですから、ここでの問題は「友達と協力する方が“善い”ことだ」というレベルの話ではありません。

にもかかわらず、流星は自分の正義を貫徹したと思ったところで、「自分を裏切っていた」ことに気付きます。
そして、相容れない相手と本気でぶつかり合って受け入れることこそ、弦太郎の「友情」です。

そう、「街」どころか個人レベルでさえ、「小さな正義」を貫くことがすでに困難なことなのです。「小さな正義は確固として存在しているが、大きな共同的正義はもっと難しい」というのは疑わしい前提です。

さらに言うなら、自分の正義を貫徹しようと思えばこそ、相容れないがゆえにかえってないがしろにすることのできない他者に出会う、ということです。

もちろん、ここで自己欺瞞をもって「小さな正義」を主張し続けることはできるでしょう。
しかし、個々の「小さな正義」がそれぞれに絶対的なものではないことこそ――それによって必ずしも合意が保証されるわけではないにしても――「正義」同士の衝突による暴力に対抗する切り口となるのです。

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