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時間と客観

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よく見ると昨年の発行ですが、こんなものがありました。

時間とは何か? (別冊日経サイエンス 180)時間とは何か? (別冊日経サイエンス 180)
(2011/08/09)
吉永 良正

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大きなウェイトを占めるのはやはり物理学の時間で、時計の技術やら生理学の観点からの生体時計の話などもありますね。哲学系の論者による論も収録されています。
その全てをいちいち追いかける余裕はもちろんありませんが、「時は流れない」と題したP・デイビス(理論物理学者・マクォーリー大学)の議論は、ちょっと触れてみようかと思います。
「時は流れない」というのは、何のことを言っているのでしょうか。

 流れという概念は、つまるところ運動に関するものだ。空間を貫いて飛ぶ矢のように、物理的な物体の運動について論じる場合は意味を持つ。その位置が時とともにどう変化するかを測れば、物体の運動を記述できる。これに対し、「時間の運動」にはそもそもどんな意味があるだろうか。時間は何に対して動くのだろうか。
 運動というのは、ある物理学的過程と別の物理学的過程の関係として記述されるものなのに、いわゆる時間の流れは時間をそれ自体に関連づけている。「時間が過ぎ行く速さはどれくらいか」という簡単な問いを発してみれば、この概念の不合理が明らかになる。「1秒間に1秒ずつ」という自明な応えは何の意味も持たない。
 (P・デイビス「時は流れない」『別冊日経サイエンス No.180 時間とは何か?』、日経サイエンス社、2011、pp.13-15)


つまり「流れる」というのは物体の時間的変化に関して言われる言葉であって、それを時間そのものに適用するのは不十分な比喩である、というのなら、何も異存はありません。
「時間が流れる」のか、それとも時間の中を「我々が動く」のかといった議論もありますが、そうした話は比喩を文字通りに論じている感は確かにあります。

しかし、そこから言えるのは、「時間が流れる」というのは「人間は考える葦である」とか「人生は夢だ」というのと同様の隠喩(メタファー)である、ということではないでしょうか。

人間は動物であって、植物の葦ではありませんし、人生は夢ではなく現実です。
しかし言うまでもなく、そのことを根拠として「人間はか弱いが、思考する能力を持っている」とか「人生は儚い」ということを否定することはできません(もちろん、それらの命題に賛同しない人――たとえば「人間はそんなにか弱くないと思う」という人――はいるでしょうが、「隠喩を文字通りに取れば間違っている」というのは「根拠」にはなりません)。

デイビスが冒頭でまず、

 バラを摘もう
 バラを摘めるこのときに
 時は駆ける

 つねに移りゆくものだから
 (同書、p.12)


というヘリックの詩を「ある普遍的かつ陳腐な考え方」の表現として引用し、さらにシェークスピアマーベルといった詩人・文学者たちの言葉を挙げているのはまことに示唆的です。詩というのは隠喩を多用するものだからです。(デイビスはまさに「隠喩を文字通りに取る」ような話をしているわけで、「科学者はセンスがない」という偏見を助長しないか心配です)

ここで、もしも「時間が流れる」といった言い回しが比喩でなく、文字通りであるかのように考えられているとしたら、それは我々の言葉が時間を表現するのに向いていないからではないか、ということが疑われます。

ところがデイビスは、「時の流れ」とか「経過」ということで言われる現象そのものが「幻想」(同書、p.16)であると主張せんとしています。

(……)現代物理学には、時の経過という概念がないのだ。物理学者たちによると時間は流れず、単に「存在する」だけだ。哲学者の中には、時間の経過という概念それ自体が無意味であり、時間の河や流れという表現は誤解に基づくものにすぎないと論じる人もいる。
 (同書、p.12)


なぜかと言えば、物理学――少なくとも相対性理論――においては、時間はちょうどグラフや時刻表のように、「空間の4番目の次元」として表現され、そこにはあらゆる時点に起きることが一望の下に並べられるからです。

(……)例えば次のような状況を考えてみよう。「アリスはホワイトクリスマスを期待していたが、その日は雨だったので、がっかりした。しかし、翌日は雪になり、アリスは喜んだ」。この描写は時制と経過に関する記述をふんだんに含んでいるが、まったく同じ情報を別の記述で伝えることもできる。時間の経過や世界の変化に関する表現は一切使わず、アリスの心理状態を日付と対応させるだけでよい。次のような、どうにも見栄えのしない、事実だけを提示した味気ない箇条書きでも事足りる。

 12月24日 アリス、ホワイトクリマスを期待
 12月25日 雨。アリス、失望
 12月26日 雪。アリス、喜ぶ
 (同書、p.15)


なるほど、「流れる」というのは物体の時間的変化を表す表現、つまり時間を前提していました。結局これは時間について語るのに時間に訴えていたおとになります。「人間とは、人間の特徴を持った動物である」というのと同じですね。
それに対して、時間を空間に置き換えて説明すれば、確かにそのような循環はなくなります。
ただし、それがどこまで適切な説明であるかは、話が別です。

さて、自然科学というのは客観的な記述を目指します。
たとえば今の私の目の前には机の上面とノートPCが見えますが、机の下側の面は見えません。机の下に潜って下側の面を見れば、上面とその上にあるものは見えなくなります。このような「視点の取り方」を捨象した、「どこから見られたのでもない机そのもののあり方」を記述するのが「客観的」と言われます。
つまり、「いつ、どこで、誰が観察しているか」(=主観)を消し去ったのが「客観」です。

ところが、見ている「私」がいなくても空間は広がっているように思われるのに対し、時間の経過というのは「いつが今であるか」に大きく依存します。さらに、相対性理論においては「何と何が同時であるか」は観察者の速度によって異なるので、「宇宙全体の客観的な“今”」を言うことができないので、「今」は、ひいては時間の経過は、主観に依存し、客観的世界の描写からは消えてしまうように思われるのです。
しかし裏を返せばこのことは、我々が「客観的世界」というものを描写するに当たって、いかに「空間」のイメージに頼っているかを示してはいないでしょうか。だからこそ、時間は空間に置き換えられることで初めて「客観的」になるのです。

哲学的議論としてはここで、「客観的なものが全てである」と考えるのは偏狭な立場に過ぎない、という主張が当然あり得ますが、もう少し客観主義に付き合うとしてもなお、気になることがあるように思われます。
(多分続きます)

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テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育

コメント

個人的にはベルクソンの「純粋持続」という考えに賛同しています。神の一部分であるわれわれひとりひとりが、その部分に応じて「捉える」その「流れ」としか形容できないものが「純粋持続」ではないかと。だから、時間を空間化して捉えるのにはどうかなあ、という立場です。

だけど決定論者でもあるのですが。「純粋持続」と「決定論」は両立しうる概念だと思うけどなあ。

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まとめtyaiました【時間と客観】

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
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