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この世界の「作者」――『あかねこの悪魔』

竹本泉氏の漫画『あかねこの悪魔』は、こう言うとありがちながら、本の中の世界に入る話です。

あかねこの悪魔 1 (ビームコミックス) (BEAM COMIX)あかねこの悪魔 1 (ビームコミックス) (BEAM COMIX)
(2010/06/25)
竹本 泉

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竹本氏ならではのSF的こだわりで、これに関する設定がなかなか面白い。

・内容のつじつまが合っている本は、その世界が実際に存在する
・つじつまの合っていない本は、中に入っても書き割り
「紙魚」という小動物は本のつじつまを食べる。つじつまを食べられた本は内容が変わり、つじつまの量が限界を下回ると書き割りになってしまう
「つじつまの悪魔」(普段は猫の姿)はパートナーとなる人間に取り憑いて一緒に本に入り、紙魚を獲って本のつじつまを守っている

ただし、主人公である辻島とヒロインの山嶺茜子(やまね あかねこ)は素質的に半人前なので、二人一緒に紙魚獲りに行くことになります。

とは言え、舞台がほとんど何でもありの「変な話」のための世界・聖林檎楽園学園(『アップルパラダイス』と共通)である割には起きる事柄は紙魚獲り関連のみで、少々物足りない印象もありましたが、巻が進むにつれて、最初は別の図書館から紙魚獲りにやって来ていて本の中で出会った女の子・島根小夜子(しまね さよこ)を交えていつの間にか三角関係の緩いラブコメに発展してきたりと、なかなか面白いことになっています。

何より、茜子は普段は眼鏡の本好き少女(上記表紙)ですが、本の中に入るとその本の世界観に合わせてコスプレします。

あかねこの悪魔
 (『コミックビーム』2012年7月号、p.378)

その上にノリで高笑いしていたりと、かなり
しかし、当初は本の中だと性格が、さらには体型でさえ変わっていると思っていたのが、次第に元々変であることが分かってきて、つまり本の中の茜子も本物だと分かることで本の中でのことも気になるようになってくる、その過程が秀逸です。

しかし、驚くべきは4巻辺り。
現実の世界で、本の中に紙魚獲りに行く時の自分たちによく似た風体の連中が現れ、紙魚を捕まえて消える二人。
「そりゃ一つ上の次元からも紙魚獲りに来るだろう」……なんとメタな。

とは言え、この世界が本の中の世界であると言われても、それはおかしい、と思います。
「だって考えてるのはこの私だもの」
ここで「われ思うゆえにゆえにわれあり」とも書かれていたり。
ここで「自分以外は自分のおかげでしか存在しない」という独我論の方は触れられたりするのも面白いとこおrですが、それはさておいて、結局、ひとたび本の中の世界が存在するようになれば、作者の指示していない部分まで成立してくるということを知って、次第に自分たちの世界が本であることも納得していきます。

しかし、さて、ここでの争点は一つ、「考えているのは私」であれば、「自分が考えていることは“この世界の作者”によって作られたことではない」という二者択一であるのかどうか、ということです。
ここで参照するのはもちろん、引き合いに出されたデカルトの言葉です。

一つ確認しておきましょう。「われ思うゆえにゆえにわれあり」はデカルト『方法叙説』(フランス語)と『哲学原理』(ラテン語)に登場するフレーズで、ラテン語版の「コギト・エルゴ・スム」は『方法叙説』のラテン語訳が初出です。
デカルトの著作は『方法叙説』『省察』(ラテン語)『哲学原理』と大筋はほぼ同じですが、一番哲学的思考の過程と議論が凝縮された書物として参照されてきたのは『省察』で、この書の本文には「われ思うゆえにゆえにわれあり」の文言は登場しませんが、同時代の学者たちによる「反論」とデカルトによる応答では、『方法叙説』のこのフレーズも引き合いに出されています。
そのことを踏まえた上で――デカルトは確実な学を確立するため、疑わしいもの全てを排除しようとします。

(……)それゆえ、真理の源泉である最善の神ではなく、ある悪しき霊で、しかも最高の力と狡知をもった霊が、あらゆる努力を傾注して私を欺こうとしている、と想定してみよう。天、空気、地、色、形、音、その他外界のすべては夢のだましにほかならず、それによってこの霊は信じやすい私の心に罠をかけていると、私は考えよう。私自身を、手も目も、肉も、血も、いかなる感覚ももたず、これらすべてを誤ってもっているのだと考えよう。(……)
 (デカルト『省察』山田弘明訳、ちくま学芸文庫、2006、p.41)


(……)しかし、何か最高に有能で狡猾な欺き手がいて、私を常に欺こうと工夫をこらしている。それでも、かれが私を欺くなら、疑うもなく私もまた存在するのである。できるかぎり私を欺くがよい。しかし、私が何ものかであると考えている間は、かれは、私を何ものでもないようにすることは、けっしてできないだろう。それゆえ、すべてのことを十二分に熟慮したあげく、最後にこう結論しなければならない。「私は在る、私は存在する」という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である、と。(……)
 (同書、pp.44-45)


が、続く「第三省察」においては神の存在証明が登場します。
これまた様々な論点を含んでいますが、ポイントとなりそうな点だけを。

(……)では、私は何によって存在しているのであろうか? (……)なおまた、おそらく私は、いまそう在るように、常に在ったのだと想定し、あたかもそこから、私の作者の存在などはいっさい探求するに及ばないこおtが帰結するかのように想定しても、この議論の力を逃れることはできない。なぜなら、人生のすべての時間は無数の部分に分割されることができ、しかもその各部分は、残りの部分にいささかも依存しないので、私が少し前に存在したことから、私がいま存在していなければならないということが帰結するためには、何らかの原因が、この瞬間に私をいわば再び創造する、つまり私を保存するということがなければならないからである。(……)
 (同書、pp.76-78)


ここには「時間」や「存在」について著しく常識外れな考えが当然のように持ち込まれているので、大変理解しくいところではありますが、「私」は創造主によって支えられることなしには存在できない、という確信が(どういうわけか)デカルトにあることは読み取れるかと思います。
実際、「われ思うゆえにわれあり」は、私が自力で存在していることを意味するのではないということは、デカルトがはっきりと述べていることです。

その上でデカルトは、この創造主たる「神」が最初の引用にあったような「悪しき霊」ではなく、欺きはしないと主張するわけですが、それは置いておいて、ここまでを総合すれば、「私が思って」いることと、「その“思う私”が在ること、さらには何を思っているかまで、この世界の作者なり神なりによって作られていること」は問題なく両立する、となります。
無論、デカルトの結論に従う必要はありませんが、これはまさに「思う」ということの本質に関わる事柄についての考察なのです。

省察 (ちくま学芸文庫)省察 (ちくま学芸文庫)
(2006/03)
ルネ デカルト

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コメント

No title

一度存在を始めた世界は、作者の描画していない部分も生成される、という設定なので、
別に自分の考えることが作者の考えている事の範囲になくてもいいのではないかと。
それはその世界が創作物由来かどうかに関係ないってことで。

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プロフィール

T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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