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『耳刈ネルリ』再論――政治的コミットメントの観点から

とりあえず寝ていればあまり腹も減らないのであって、寝てばかりいるのはエネルギー不足に対する身体の防衛反応か、等と思いつつ。
ちなみに、講義室には当然ながらエアコンが入っていますが、我が家はまだエアコンのスイッチを入れないで過ごしています。

 ~~~

さて今回は、それこそこのテーマなら『君が衛生兵で歩兵が俺で』の話に続けてやれば等と思いつつ、何度か取り上げてきたライトノベル『耳刈ネルリ』シリーズの話を再びです。
まず、本作の舞台は確かに旧ソ連をモデルにしていて、それは風土や人名、あるいは政治機関の名前が「委員会」であること等に端的に表れていますが(ネルリのシャーリックの王国のモデルがモンゴル帝国であるのは作者も明言するところですし)、しかし注意すべきは、必ずしも旧ソ連=スターリニズムではないということです。

計画経済などの行われている気配はありませんし、カリスマ的独裁者の存在や個人崇拝の影もありません。まかり間違っても校庭に活動委員長の像が立っていたりはしません。むしろ印象的なのは、本地民の誰もが「自由・調和・博愛」という「活動の精神」を叩き込まれ、自ら政治的コミットメントを奨められているという「自由による抑圧」です(そしてこれが、たとえばシャーリック王国の「野蛮」な独裁政治と対比されるところでもあります)。
シリーズ第2巻『奪われた七人の花婿』では出版検閲の問題や、防諜関係の仕事(いわゆる秘密警察のようなものと見ていいでしょう)に務めるレイチの父のことも描かれますが、しかしその中でも強調されるのは、委員会の決定が「場当たり的」であり検閲が「恣意的」であることです。
このことは歴史にも及び、200年前に反乱を起こした「蛮族の女首領」初代耳刈ネルリは歴史教科書にも登場する人物ですが、――この「耳刈ネルリの乱」との戦いが「自由・調和・博愛」という「活動の精神」を確立した要因の一つとも言われていながら――本地の側の「建国の父」や「英雄」の存在はまったく語られることはありません。

どこかで「ペレストロイカの成功したソ連」と形容されていたのは言い得て妙と言うべきでしょうか。ここに現実の日本を重ねることも容易かと思われますが、それはさておいて……

このような状況においては、立ち上がって政治的コミットメントを行うこと自体がまさしく「活動の精神」に適うこと、すなわち体制に与することにもなりかねません。
そうして見ると、レイチの生き方も、韜晦に満ちた語りも、体制への無言の抵抗のように見えてきます。
そして実際、こここそ「韜晦の語法」が力を発揮するところでもあります。
たとえば1巻で、明言こそされていないが実は各クラスから2名の自治委員に選出されるのは本地民だけだ、と言われている中で、11組からは王国民・本地民入り乱れて多数立候補しながら、レイチは新入生代表の優等生・カミレと共に委員に選ばれてしまいます。

 王国民ドン引き。
 僕の計画では、カミレとヘイジンが委員に選ばれたのを受けて、「いやはや、点取り虫ってのはイヤなものでゲスな」と王国民にすり寄り、うまいことクラスの多数派につくはずだったのに……
 (石川博品『耳刈ネルリ御入学万歳万歳万々歳』、エンターブレイン、2009、p.108)


そして、紛糾する委員会の席で、

 カミレの意見は幹部委員たちのうなずきや耳打ちを引き起こした。
 僕の机に彼女の手が静かに伸び、一枚の紙片が置かれた。

  王国民と本地民の共存目指す新しい委員会作るチャンスあなたの意見聞かせて

「委員会と防衛隊の交渉はどういったルートで行われていますか? 相手方の担当者の氏名は?」
 カミレは勢いづいて、幹部達を質問責めにしている。
 僕は紙片に走り書きされた文字を見つめた。チャンス――この言葉がヒントになった。
 これは彼女にとってのチャンスだ。「上」に行くための。
 僕には関係ない。ナナイにも関係ない。
 (同書、pp.192-193)


ふざけた語り口に包んでいても、中央活動委員会に務める父との関係から来るレイチの政治的なものに対する反感――あるいは少なくとも距離感――は隠しようもありません。そして、隠し切れずに滲み出てくるからこそ、この点は印象的です。

他方で、カミレもレイチの思うほど自らの栄達のみを考えているわけではなく、委員を務めると同時にクラスメイトを助けることも真剣に考えていたらしいことが後半には見えてきます。レイチとネルリの恋愛が出てこない1巻にあっては、彼女の方がf通のヒロインらしいポジションにあったと言えるかも知れません。

それはさておき、こうして政治的なものから距離を取るレイチですが、しかし自分がエリートであることに気付きます(「エリートいかに生くべきか」の記事における引用参照)。この箇所は1巻の中では、レイチの本音の「告白」と言ってもいい場面でしょう。エリートとはすでに責任を背負ってしまっているものであって、ノンポリを気取ってばかりもいられません。
それと同時に、レイチが「僕は誇りを分かち合いたい」と独白しているのが、すでに学校を去る決意をしている状況であるのが、また重要です。レイチの求める“仲間”は、すでに「ともに楽しく過ごす相手」といったレベルを超え、それぞれに道に進んで別れていった後でも「誇りを分かち合」うことができるような仲間です。
その中で自らの「集団における教養」が形成されるような共同体を自ら掴み取っていくこと――これこそ、積極的な社会化というものです。

1巻では自治委員会に監禁されたクラスメイトを助けるために暗躍し、2巻では文化英雄コーチキンを救出し――と、レイチは図らずも政治的な場面で動くことになりますし、さらに2巻ではそのことが父カリク・カリガネフとの対決にもなりますが、しかしそこで「父の鼻を明かす」ことがカタルシスの中心とは必ずしもなりませんし、ましてや「父と和解する」方向にも動きません。彼が政治活動から比較的遠いところにいるらしいのは、卒業して社会に出ていた後の3巻エピローグですら基本的には変わりません。
それでも、恋愛というもっとも個人の固有性に関わる事柄を起点に「何者かにならねばならない」と努力しているレイチの姿が、上記のような社会化の道のりの上にあることは理解されるでしょう。
そしてこれは、体制から距離を取りつつも共同性を手に入れ、社会にコミットしようとする苦闘の様でもあるのです。

この話題の最後に、レイチのクラスメイトの一人、ベイン教国出身の三人の女子の一人ソックのことに触れておきましょう。
ベイン出身の三人はそれぞれ特徴的な形の“冠”を付けているので、地の文ではそれぞれ◇・▽・○と表記されていますが(途中から事情により◇のみイ=ウと本名に)、その中の▽がソックです。

耳刈ネルリ ソック
 (2巻カラー口絵より)

1巻の終盤でいわゆる腐女子なところを強烈に見せ付け、妄想力を絆にレイチと仲良くなる彼女。そのせいでというわけでもないでしょうが、高校卒業後も同じ大学に進学し、ずっと親友であったようです。
そして、エピローグにおいては政治的野心の強い優等生であったカミレが結局政治の道を断念をしているのに対し、唯一中央活動委員会に務めているのがソックです。

 中央活動委員会にスカウトされたとき、▽は僕の家に来て僕の父と話し合った、その席で僕は父の仕事の話をはじめて詳しく聞いた。父は楽しそうだった。家出あれほど楽しそうに話す父を僕ははじめて見た。あとで、彼が僕と▽を恋人同士とかんちがいしていたことを知った。
 (石川博品『耳刈ネルリと十一人の一年十一組』、エンターブレイン、2012、2009、p.285)


これだけで色々と想像させるところの多い文章ですが、レイチの父との関わりが――政治から距離を取る息子とは対照的な形で――こんな風に影響してくるとは因果は数奇なものです。が、社会の色々なところに強い絆で結ばれた仲間がいるというのは心強いことでしょう。

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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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