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方法と知識、そして時間が果たすこと

実に色々な話題が混在しますが、前々回の話の続きでも。

物理学者ソーカルとブリクモンの『知の欺瞞』はもっぱらポストモダン思想における科学用語の不適切な濫用を批判した著作ですが(ポストモダン思想そのもののあり方に対する批判ももちろん含むことになりますが、それを全面的に否定しているわけではありません)、「第一の間奏」として科学的認識についての相対主義や社会構築主義を批判した章も含まれており、そこではカール・ポパートマス・クーン、そしてポール・ファイヤアーベントの学説も批判的に取り上げられています。
先に言っておくと、論点は多岐に渡り、ソーカルとブリクモンも上記の科学哲学者や科学史家の考えの“穏当な面”については当然と認めていますし、さらにファイヤアーベントについては「一筋縄ではいかない人物」であって、「彼の書くことを、どこでどの程度真に受けるべきかという」問題があることも認めています(アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『知の欺瞞』、岩波書店、2000、pp.107-108)。一つの刺激剤として過激な言い方をしているのであれば、それを文字通りに受け取るのは正当ではないということです。

その上で一つの箇所を見てみましょう。
問題になるのは、ファイヤアーベントからの(科学を神話や宗教と並べている過激な相対主義と見られる)以下のような引用です。

 六歳の子供の両親はプロテスタントの根本原理や、ユダヤ教の根本原理の教育を子供に与えたり、あるいは宗教的教育を全く控えたりすることを決めることができるのに、科学の場合には同じような自由をもっていない。物理学、天文学、歴史は学習されなければならない。それらは、魔術や、占星術や、あるいは伝説の研究に取って代わられることはできない。
 またわれわれは物理的(天文学的、歴史的等々)事実および原理の単に歴史的な提示に満足しない。われわれは次のようには言わない。すなわち、ある人々は地球が太陽の回りをまわると信じているが、一方他の人々は地球を太陽、惑星、構成を包み込んでいる中空の球とみなしているのだと。いやわれわれは次のように言う。地球は太陽の回りをまわる――他の一切は全くの愚言だと。
 (村上、渡辺訳『方法への挑戦』、p.417より、上掲『知の欺瞞』p.113に引用)


この引用文を見ても、ファイヤアーベントが「そのようなことはおかしいのであり、科学教育に魔術や占星術や伝説の教育を取って代える自由を認めるべきだ」と主張しているのかどうかは微妙な事柄です。なぜそうなのか? と問いかけているようにも見えます。
ですが、ソーカルとブリクモンの批判を見てみましょう。

ここではファイヤアーベントは古典的な「事実」と「理論」の区別をとりわけ乱暴に持ち出している。これは彼が拒絶しているウィーン学団の基本的な教義に他ならない。また、彼は社会学について語るときには、自然科学への適用を否定している素朴な実在論的な認識論を暗黙のうちに使っているようにみえる。そもそも、「ある人々」が「信じている」ことを知ろうと思ったら、科学の方法と類似したやり方(観察、世論調査など)を用いるしかないのではないか? アメリカ人の天文に関する信念を調査するとして、もし物理学の教授だけを標本調査の対象にしたなら、地球を「中空の球」だと思っている人は一人もいないだろう。もちろん、ファイヤアーベントは、これは計画のまずい調査で、標本の選び方が偏っていると実に正しい反論をすることができる。(彼は、非科学的だとあえて言うだろうか?)(……)
 (『知の欺瞞』、p.114)


概ねにおいてこの批判は正しいでしょう。つまり「ある人々」がしかじかのように「信じている」と「歴史的に」語るのが正しいのなら、「地球は太陽の回りをまわる」と語るのにも正当性を認めてしかるべきである、という意味では。
しかし、ファイヤアーベントならばここで「観察、世論調査など」といったやり方はなぜ「科学的」と言われるのか、と問い返すのではないでしょうか。科学がそのような方法を使っていることと、それこそが科学を特徴付ける方法であることは別のことです。

 違うのは、科学が数学を使うところじゃないですか。私は勇気を奮って言った。占星術だってそうと〔ファイヤアーベント〕先生は答えた。放っておけば、占星術師が使っている様々な計算方式をこまごまと説明してくれただろう。ヨハネス・クプラーという史上最大の天文学者が、占星術の技術的な仕上げにいくつも貢献していることや、ニュートンが物理学よりも錬金術に時間をかけていたことを教わっているとき、二人〔著者スモーリンともう一人の学生〕は言うべきことを知らなかった。君たちは、自分がケプラーやニュートンよりも立派な科学者だと思うかね?
 (リー・スモーリン『迷走する物理学』松浦俊輔訳、ランダムハウス講談社、2007、p.377)


たとえば事実を調査し、統計を取るといった「方法」こそが「科学」の条件であるなら、それをやってさえいればおまじないでも何でも科学になる――ソーカルとブリクモンはファニャアーベントの相対主義を批判していたはずが、これではどちらが相対主義だか分かったものではありません。
もちろんソーカル達もそのようなことを言いたいわけではないでしょう。彼らも科学が「定まった普遍的な規則」に従って行われるわけではないことには同意しています。

(……)彼の議論は、うまくいっても、科学はきちんと定まった方法に従って発展するものではないということを示すだけで、この点にはわれわれも基本的に同意する。だが、ファイヤアーベントは、今日の知識に照らした上でも、いかなる意味で原子論や進化論が誤っている可能性があるのかを説明しない。そういう説明がないのは、彼自身そんな可能性を信じてはおらず、他の人たちと同様に、進化論や原子論といった科学的な世界の見方を(少なくともある程度は)受け入れているからではないか。もし彼がこういう考えを受け入れているならば、それはそうするに足る理由があるからに違いない。科学の知識は普遍的な方法や規則では正当化できないといったことのみくりかえすのではなく、自分がこれらの考えを受け入れている理由について考え、それをはっきりと記述することを試みてはどうだろう? 一つ一つの例についてじっくり考えていけば、確かにそれらの理論を裏付ける経験的な理由があることがわかるはずだ。
 (『知の欺瞞』、p.114-115)


ファニャアーベント自身「進化論や原子論といった科学的な世界の見方を受け入れている」という指摘は100%正しいと言ってもいいくらいでしょう。しかし、同時に両者のズレがどこにあるかもこの上なく明らかになっているように思われます。
そもそもスモーリンの証言するソクラテス人物としてのファイヤアーベントなら、「これらの考えを受け入れている理由について」は各自で問い、考えて欲しいと思って扇動的な発言に徹していたのかも知れませんが、そこは措いておきましょう。

ポイントは、ソーカルとブリクモンが挙げるのが「進化論や原子論」という100年から前に確立された考えであることです。
ファイヤアーベントが「なんでもかまわない」と過激な言い方をしているのは「方法」についてであって、その結果として生じる「見解」については、どの程度説得力があり確かだと思われるかの程度差があることを認めているはずです。この上なく確かな知識が確立されていること、すなわち科学の「成功」が「なぜか」ということが彼の問いだったのですから。
不適切な方法を用いるのも一興ですが、その不適切な方法による主張とそれを「不適切だ」と批判する主張の間には、審判を下せる余地があります。

では100年から昔に確立された理論が「なぜ確かか」は、これからの科学のやり方を示す指針となり得るのか? (スモーリンはまさしく「今のやり方」が成功していないのではないか、と問いました)

ソーカル等はこの点について、つまり「方法」と「得られた知識」の区別については無頓着であるように思われます。

この点に関する有効な補足ととして、スモーリンが『迷走する物理学』において自分なりの科学の規定を提示した後に書いていることを見ておきましょう。

 このような科学の規定には、いくつかのわかりやすい反論がある。まず、先ほど述べた倫理共同体の一部の構成員による明瞭な違反がある。科学者はしばしば、証拠を誇張し、ねじ曲げる。年齢、地位、流行、同業者の圧力などは、どれも科学者共同体の動きで何かの役割を演じる。証拠から指示される以上に支持者と資源を集めるのに成功する研究方針もあれば、後から見れば実を結ぶ研究方針が、ソシオロジーの力によって抑圧されていることもある。
 しかし、私はあえて、後に誤りであることがわかる正統派や流行の考え方の売り込みと擁護に時間や資源が浪費されても、長期的に見れば進歩は続くという倫理を、十分な数の科学者が支持すると言おう。時間の役割は強調しておかなければならない。短期的にはどういうことになろうと、何十年もの間には、流行とは関係なく、コンセンサスによって相反する説に決着がつくほどに証拠が蓄積されるのは、ほぼ確実である。
 私が出した規定は論理的には不完全だという反論もありうる。私は、職能として何を習得しなければならないか、それを決める基準はまったく出していない。しかし私は、その決定は共同体そのものによって行われるものがいちばんいいと思う。ニュートンやダーウィンなら、今使われているいろいろな道具や手順を予言しえただろうか。そんなことはありえない。
 (『迷走する物理学』、pp.393-394)


この「時間の役割」というのは想像以上に難物で、私たちには文字通り「時間がない」のです。
実のところ、私たちは長い時間をかけて生じることを考えるのが苦手であり、すぐには起こらないことが時間の力で果たされるということを、さらにはそれはなぜかということを考えるのに多くの困難を感じます。具体的に想像しようと思えば壁にぶつかります。
まして経験的な時間のスケールを超えた話となると、私たち個人が自分で経験できるレベルでは起こらないことがもっと長い時間では起こるということを(たとえ起こったという証拠があっても)なかなか理解しません。いずれ起こることなら、時間を取り去って考えることができるんじゃないかと考えがちです。

しかし、だからこそ時間の役割は重要なのであり、「とうになされたこと」と「今なされつつあること」の区別を強調したいと思うわけです。


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Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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