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共依存の行き着く空虚――『いもーとらいふ 〈上〉』


サディズム、マゾヒズム、ロリータ・コンプレックス……といった性癖は、文学者やその作品名から名付けられており、裏を返せばそれらの作品はその性癖を描いた分野を代表する作品と言えます。
では兄妹ものを代表する文学とは何でしょうか……と考え始めると、どうもピンと来るものが思い当たりません。

(ちなみに『篁物語』は、異母兄妹が結婚できた社会の話ですので、今で言うと「親戚のお兄さん」くらいの感覚に見えます)

……そんなことを前置きにして、今回はまさに「妹」を扱ったライトノベルを取り上げさせていただきます。
入間人間氏の新作です。



本作は『電撃文庫MAGAZINE』の2話まで掲載されたものに加筆修正の上、書き下ろしを加えての単行本となります。
雑誌連載時に少し触れた記事はこちら

入間氏の作品にはままあることですが、しかし電撃文庫刊行作品には珍しく、本作の登場人物にはいっさい固有名がありません。
主人公の大学・社会人時代が大部分を占めていることといい、作者が普段メディアワークス文庫で刊行している作品に近い印象がありますが……電撃文庫からの刊行はイラストと作品モチーフからの判断でしょうか。
ただ、本作が表紙とタイトルの与える期待に応えるかどうかは微妙なところです。その辺は後述。

それはさておき、本作は兄の「俺」による一人称語りで、この上巻では彼が3歳の時に妹が生まれてから妹25歳までの半生を描いています。
2人は3学年差(妹は2月14日生まれ、妹6歳の夏休みに兄は10歳とあるので、兄の誕生日は4月~8月の間と分かります)。
入間作品の主人公は、子供であってもかなり大人びた語りをすることが多いのですが、本作は明確にしばしば「後からの回顧的な視点」が入っており、少年時代のエピソードも大人になった主人公の視点での語りだと分かります。

生まれてしばらくは妹という存在に戸惑っていたものの、妹が小学1年の時に夏休みの宿題の絵日記を手伝って以来、何かと妹の面倒を見るようになり、それが妹のためにならないのでは一人気に病んで家を出たりもしつつ、結局は元の木阿弥、しかも大学でできた彼女よりも妹を優先してしまい、気が付けば人生を妹に捧げていた兄の物語です。

同じ部屋に布団を並べて眠り、(彼女相手にもやらないのに)ごく自然にお互いにスプーンでアイスクリームを食べさせるなど、二人が互いにべったりな様子はよく伝わり、序盤はどこか微笑ましくもあります。
そして、共依存の兄妹というのはきっとこんな感じだろう、という迫真性にも満ちています。

しかしだからこそ、後半、気が付けば人生を妹に捧げた結果としてあまりにも多くを失い、何も残らなかった三十路の兄の境涯は、すさまじく心を抉るものがあります。

妹が自分を必要としなくなったら、そのことに身を捧げてきた自分はどうなってしまうのか――


さて、そんな本作を「妹もののライトノベル」という範疇に含めていいのかは、難しいところです。というのも、以下のような特徴がこのジャンルの範例に反するように思われるからです。

(1) 妹が客観的に見て可愛いとか、そういう記述はかなり少ない
(2) ましてや、兄が妹に性的な視線を向ける描写は一切ない
(3) 妹が拗ねるとか喧嘩するとか、そういうラブコメ的なイベントはない

(1)に関しては、ないではないものの、小学校時代に「多分、成長したら俺よりは妹の方が周りに人気出るだろう。と、思う」(p. 33)とか、主人公が就職してから同僚に言われていまさらのように「やっぱりか」と思うくらい希薄なもの。地の文にしばしば見える「かわいい」は、まずもって庇護対象としての「かわいい」を指示するものとして使われています。
そもそも、幼く見える――大学生になっても中学時代から変わっていない――ことを除けば、一番容姿の描写があるのは生まれた直後の「保育園に預けられる赤子よりもずっと小さく、M字ハゲで頬が赤い」(p. 14)ではないか、というくらい。

そもそも、伊藤剛や斎藤環といった論者たちが語るように、「キャラ」というのは文脈から切り離されて同一性を保つものである(その例が二次創作である)としたら、「妹キャラ」とは何でしょうか。
「妹」とは「誰かの妹である」という文脈に依存する概念なのではないでしょうか。
早急に結論を出すことは控えておきますが、世に言う「妹萌え」というのは、まずもって「客観的に見て可愛い美少女が、主人公の妹である」ということが肝心なのではないか――そんな気はしています。「わが妹ながら相当に美少女だ」といった記述はよく見かけます。
そして、兄妹の枠を超えて男女としての想いを向けてしまうのも定番。

本作はそういう方向からは外れています。(2)に関しては、風呂上がりの妹が半裸でいる場面で明らかでしょう。

さらに言えば、序盤に

 雪を避けて生まれてきたからだろうか。三歳の時だったか、また雪が多く降った冬に親父がソリを持って遊びに連れて行ってくれたときもすぐに『寒いもう帰りたい』と泣いてしまうぐらいだ。そんな妹を当時の俺は口にこそ出さないが、根性のないやつだと思っていた。まさかその評価がそれから先もずっと変わらないは、さすがに考えていなかったのだけれど。
 (入間人間『いもーとらいふ 〈上〉』、KADOKAWA/アスキー・メディアワークス、2016、p. 14)


とありますが、これもよく見れば兄による「評価」であって、妹が実際に客観的に見て「根性がない」、頼りない、という話ではないのです。
実のところ、小学1年の夏休みの宿題を手伝ってから頁数にするとあっという間に妹は中学生になり高校生になりますが、その間兄が何でもかんでも面倒を見ていたとは、書かれていません。
妹は外に友達がいないらしい、だから遊び相手は自分の他にいないのだろう、と兄は判断していますし、その判断はほぼ間違いないのですが、兄が友人に付き合うことを選んで帰りが遅くなった時も、大学進学に当たって家を出た時も、妹は表向きこれといった反応を見せません。ただ、このままではいけないんじゃないかと兄が自分の内で気に病み、そして結局は自分にとって妹が一番大事なんだというところに回帰しているだけです。

もちろん、この妹が兄にべったりなのは明らかですし、特に家を出た兄を追いかけるに当たってはかなり空恐ろしい執念を見せたことも、後に母の台詞から分かります。それに、兄に彼女がいたと知った時には、さすがにショックそうでした。
ただ、そこで妹が拗ねる、兄に要求する……といったラブコメ的なイベントはないのです。妹がショックなのを見て何よりも兄がショックを受けてしまい、そこで自分にとって妹が一番なんだと自己完結してしまうのです。

ここには徹底して、「兄とは何か、妹とは何か、自分は兄としてどうありたいのか」という兄の自意識しかありません。

これだけの自意識小説を読んだのは芥川龍之介「鼻」以来のような気さえしています。
まさしく、禅智内供にとって問題は自分の鼻の客観的な長さではなく、人の自分に対する視線、そしてそのことによって傷付けられる自尊心であったように、本作で問題なのは妹が客観的に見てどうかではなく、この兄にとっての妹であり、それに対する歪な庇護欲です。

もっとも、兄が大学で出会った「彼女」は、(兄弟がいないこともあってか)妹のことに激しく反発します。

『あなた、包丁があったら妹に柄を握らせて私に刃を持たせるのね』
「どうしてそうなる。そんなときがあるなら、一本の包丁を使い回せばいいじゃないか」
『お断りよ、そんなの』
「じゃあ、包丁を二本買うとか」
『あなた分裂できるの?』
 例え話と現実的な解決方法が接触事故を起こして会話になっていない。だけど、彼女の言い分がなんとなく伝わってくるのはその感情にまかせた言葉遣いのお陰だろうか。
 (同書、pp. 109-110)


しかしここでも、妹と彼女は出会うことすらなく、修羅場は妹の知らないところで過ぎ去っています。
結局こうした彼女の反応も、どこかで妹への愛と彼女への愛を並列に比較してしまい、「妹と彼女の共存は無理だ」(同書、p. 94)と確信している主人公の心理を鋭敏に察しているからではありますまいか。


そして繰り返すようですが、終盤で描かれる、空っぽな三十路の哀愁の重さ。
成長することで失うもの、といったテーマも作者のしばしば描いてきたことでしたし、また『エウロパの底から』のような作品では、三十路の不安も鮮やかに描いて見せました。『エウロパ』の主人公の心理は作者の投影という全く個別的な事例のようにも見えますし、またある面ではそう読まれるべくして書かれているのですが、人生の先と限界が見えてきた三十路の不安という面で、かなりの普遍性と迫真性を持った描写でもありました。
『エウロパ』から数ヶ月も経たずに『砂漠のボーイズライフ』を刊行し、また今でも『安達としまむら』を続けていることを見れば、後から振り返ると「小さなことで悩んでいたな」と思える思春期の不安と、三十路の不安の重さを描き分ける手腕はご理解いただけるはずです。

ここでしつこく同じ名前を引き合いに出して、芥川で三十代で「将来へのぼんやりした不安」により自殺したことに触れるのは、無用のことでしょうか。

とにかく、この共依存とその行く末の描写の生々しさには、傑作の気配を感じます。
本作の下巻は秋刊行予定とのこと。
いったい兄の人生はどうなってしまうのか、「らいふ」というタイトルからして老後まで描いてくれるのか、恐ろしいながらも楽しみです。


さらなる余談ながら、年老いて兄妹二人暮らし……というのはしばしば実在する事例のようですが、思い出すのは『赤毛のアン』のマシューとマリラだったりします。
モンゴメリには二人を「子供のない老夫婦」にしたくない確かな理由があったのでしょう。





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憎しみと幸せと――『異世界拷問姫』

スマートフォン、データ使用量はいつでもチェックできるのですが、どうもアプリを使用するよりもアプリをインストールする方が明らかに使用量が多いのです。
それでいて、アプリを最新版に更新するよう定期的に要求してきたりしますし……これも業者の罠でしょうか。
そもそも、通信料が光熱費に匹敵するところからして疑問は持っています。
まあ便利ではあるのですが。雨雲の接近までいちいち教えてくれますし。

 ~~~~

さて、今回取り上げるライトノベルはこちら、ファミ通文庫で『B.A.D.』『アリストクライシ』、『ヴィランズテイル』といった作品を刊行してきた綾里けいし氏、MF文庫Jに移っての新作となります。



ちなみに、綾里氏は一時期、新レーベル「Novel 0」(元MF文庫Jの編集長が立ち上げたレーベルで、MF文庫Jからの移籍組も多い)での執筆予定作家にも名前が入っていたのですが、結局こちらになったのでしょうか。

本作は異世界召喚もの、という体裁になっています。
主人公の瀬名櫂人(せな かいと)は父親に虐待され殺された少年。しかしなんの因果か、彼の魂は異世界の「拷問姫」エリザベート・レ・ファニュによって召喚され、新たな生を与えられて、執事(バトラー)として仕えさせられることになります。
エリザベートは無数の民を拷問にかけ虐殺した過去を持ち、現在は教会の命によって13体の悪魔を狩る身。そして、その命を遂げた後には、彼女自身も処刑される運命だというのですが……

まず第一のポイントは、当世流行りの異世界召喚(あるいは、死んでの召喚だけに転生との中間かもしれません)のフォーマットを採用しつつ、「残虐に凄惨に殺されし、罪なき魂」を呼び寄せていたエリザベートのもとに異世界の魂が紛れ込んでしまった、新たに与えられた肉体も作られたものだが魂に合わせて元の世界と同じ姿になっている(ただし、人間よりも不死身に近いので酷い目に遭っても大丈夫)など、独自のもっともらしい設定を与えていることでしょう。
大体、異世界召喚というと最初から向こうの人が「異世界人を呼ぼうとした」、転生ならば人の魂を司る神的存在の仕業か、さもなくば説明なし――といった設定の作品が多い中で、注目しても良いでしょう。

そして、異世界で新たな生を得たとあれば、どう異世界生活を謳歌するかが主題となるのが普通ですが、本作の主人公・櫂人には、元の世界での不幸な過去と父親への憎しみという問題が付きまといます。
父親への復讐を果たさせてやる、という誘惑を前にしたらどうするか――というのが一つの山場であり、まrたそこで、単純に新たな人間関係や幸せによって吹っ切るという綺麗な形にならないのが、作者らしさでもあります。

憎しみのような想いは確かに簡単には立ちがたいものですが、綾里氏の場合、復讐を果たしたからといってそれで決着して前に歩き出せるとも限らない、そのことによってますます破滅していくというのもパターンですし。その辺の情念の描き方はやはり一級品です。

そして、そんな過去の不幸と、新たな生への幸福の可能性に対応するように、櫂人を凄惨な戦いと殺戮のあるこの異世界へと呼び寄せたエリザベートはたしかに物語の軸となるヒロインですが、他方で彼に恋愛感情を向けるヒロインは別に、人形のヒナという娘がいるです。
ヒナはどこまでの献身的で、強く、ハイスペックで、しかもその櫂人への想いは恋人としての愛なのだとはっきりしています。
思えば、同作者の『B.A.D.』でも、物語の中心であり主人公と離れがたい関係にある繭墨あざかとは別に、恋愛面のヒロインとしては白雪がいましたし。その辺、「ヒロイン」を恋愛方向に傾ければいいわけではないという方針ははっきりしています(『B.A.D.』の場合、主人公の小田桐とあざかの関係が小田桐の孕む娘・雨香を挟んだ三者関係であるところが、さらに複雑なところなのですが)。

さらに本作の場合、エリザベートがなぜ殺戮を行う「拷問姫」となったか、という彼女の問題がもう一つの話の軸としてありますから、櫂人とエリザベートをW主人公と見ても良いでしょう。
また、櫂人の視点からエリザベートの個人的な過去や感情を描いて、両者の物語をセットで纏めているのも、上手いところですね。
主人公の視点で語られる物語において、主人公以外の内面を直接描くことはできない(視点を変えて書いたところで、それが主人公の直接伝わるわけではないので、「主人公にとって謎であった人物の背景を解明する」には不十分)わけで、ともすれば客観的で味気ない語りになりがちです。『B.A.D.』の場合、雨香の能力によって小田桐が他人の感情や記憶を見ることができるという設定が、ここで役立っていました。本作も、エリザベートと櫂人の繋がりが活きています。

他方で、悪魔との戦いに関してはかなり展開が速め。
戦闘描写もあっさり気味ですし。ついでに、エリザベートは拷問具を操って戦うのですが、ただ敵を殺戮するだけで、別に尋問するという意味での「拷問」ではないんですよね。
とはいえ、それでも描写は残虐で、精神的にえげつないエピソードも多いのですが、そもそも思い入れができる前にキャラが死んだりするので、一つ一つのエピソードはかなりあっさりしている感はあります。

そして、最後は最大の敵とも決着をつけてしまって終幕
14の悪魔なんて設定した以上、下級の悪魔を何人か倒して、トップは顔見せくらいで続く――というパターンの作品も多いのですが……あるいは『アリストクライシ』で、結局ラスボスとの決着が遠いままに未刊となった反動があるのかも知れません。
まあこの点に関しては、出し惜しみしない良さとも言えます。

ただ、だからといって「めでたしめでたし」では終わらないのが本作の設定。
何しろ、エリザベートは悪魔の討伐を終えれば、処刑されることになっています。そしてその時には、彼女の「所有物」である櫂人も……
しかし、そうした滅びへの道がはっきり用意されているからこそ、はてその結末を回避する道はないのか、回避出来ないとすれば彼等はどんな顔をして結末を迎えるのか、かえって気になるのも事実。

凄惨な描写の多い作品ではありますが、櫂人、エリザベート、ヒナの3人の日常シーンにはコミカルで楽しい場面もたくさんあって、彼等が一つの「幸せ」を摑めたのが確かに感じられるだけに、救われて欲しい思いもあり、行く末を見届けたくなるわけですが、はてさて、どうなるでしょうか。

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形にならない想いと不安を抱えて――『安達としまむら 6』

田舎を描いた作品で携帯電話が繋がらない、という描写をたまに見ますが、現実には今やこういうことはまずあありません。
携帯電話会社のアンテナ敷設活動は目覚ましく、元々電波の届きにくい谷間の山荘でさえ、数年前までは繋がらなかったのが繋がるようになっている、ということが増えています。

ただし、携帯電話の画面にある、電波状態を示すアンテナ表示は、当てになりません。
画面のアンテナは最大数が立っているのに、明らかに接続が遅く失敗することもあるというのを、最近も経験しましたから。

 ~~~

そんなことはさておき、今回取り上げるライトノベルはこちら、『安達としまむら』6巻です。
気が付けば、同作者の作品の3番目の巻数を記録するシリーズとなりました。

 

 (前巻の記事

今回は夏休み編の続き――ほぼ前巻と合わせて前後編という形になります。
まず今巻の前半は、しまむらが家族で母方の祖父母の家に。そこで祖父母や犬と触れあいつつ、安達との関係についても考えるしまむらの姿が描かれます。他方で安達はわずか3日の間にも、しまむらが帰ってきたら一緒にやることを色々と考えるわけですが……

冒頭の件とも関係しますけれど、現代ではこういう状況でも携帯電話での繋がりは維持されます。
カラー口絵からして、写メで水着姿を送るという妙な一場面を描いていたり。
ただし、やはり直接に相手と会ってやりたいことというのは、あるのです。

章ごとに二人の視点を切り替えることの多かった本シリーズですが、前巻では第1章の中で小刻みに両者の視点を切り替え、そして第2章以降は一切安達視点のみになることで、安達から見ての「しまむらが分からない」感覚を強く伝えました。
そして今回は、全編を通じて各章の中で小刻みに視点を切り替える形になり、前回は謎だったしまむらの心情も描かれます。
安達が怒濤の勢いで重く面倒くさい激情をぶつけてきたあの電話に対する冷淡な反応の真相も……いや、ここは知ってみれば笑ってしまうような話だったのですが。

まあしかし、やはり今回の見所は、友達がいても人付き合いに深入りしないでいたしまむらの心情が、祖父母の家出買われている老犬ゴンとの交流を通して描かれることでしょうか。
彼女が幼い頃からの仲良しで、老い先短いゴンに対し、死ぬ前に向けておくべき想いがあるような、それでいてそれをはっきりと形にできない彼女を、祖母は「潔癖すぎる」と表現します。
実際、半端な表明をできないというのは、あまりにも誠実にすぎるという面ああるのでしょう。

さらには、祖母の親切に対し、「どうしてそんなに優しくできるの?」と問う彼女。
孫に優しくするのは当たり前のことでしょうが、しかし彼女にとってはそれがイメージの湧かない、遠いことなのでしょう。

注目すべきは、ここでも劇的な事件は何も起こらないこと。
現在形で犬が死ぬとか、そういう劇的なイベントを持ってくれば、ドラマは作りやすい。安直と言われようと、「死」にはそれだけの力があります。
しかし、本作ではそれはありません。
「死」はただ、予感としてのみ描かれ、それが想いをはっきり表明できないもどかしさと結び付いています。
そして、だからこそいっそう心に沁みるのです。

 以前は二匹いたけど、今はゴンが大人しくしていれば犬の鳴き声は聞こえてこない。二年前に死んだのはゴンより前に飼われていた犬だった。こちらもご長寿だった。出会ったときには大人だったからか、ゴンほどではなかったけれどわたしとも打ち解けていた。
 その子が死んだと聞かされたとき、わたしは泣いていただろうか。
 それだけがどうしてもはっきりとせず、思い出せない。
 温度とか、胸の痛みとか、そういうもので分かるかもしれないのに、ピンと、こない。
 夏の暑さに参ったわたしからこぼれるものは、涙と汗の区別がつかないのかもしれない。
「…………………………………………」
 ゴンは、確実に弱っている。
 去年にその姿を見たとき、来年はあるのかと不安だった。
 そんな不安の中で今年が来て、そして、来年は?
 ゴンが死ぬとき、わたしは泣くのだろうか。
 そんなことを自問するだけで胸に黒いものが溜まり、息が詰まるようだった。
 (入間人間『安達としまむら 6』、KADOKAWA、2016、p. 36)


外から見える出来事としてはゴンはまだ生きていて、彼女の後をついて回っている――それだけの日常風景を通して形にならない想いを描く、その手腕は巧みです。

そんな場面も経て、安達との関係についてもしまむらの想いには若干の動きがあり――そして、後半では一緒に浴衣で夏祭りに出かけます。
最後には二人の関係に大きな進展が――いや、しまむらとしては大きな変化はないと思えばこそ、なのかも知れませんが……今後、両者の関係はどうなっていくのでしょうか。今後も一筋縄では行かなさそうで、楽しみです。

章間では相変わらず日野・永藤としまむらの妹・ヤシロのペアが描かれます。
こちらは相変わらずの安定感。なお今回、本編には日野・永藤はまったく関わってきません。
日野家は毎年ハワイに行くとのことで、こちらでも安達と同じく永藤が取り残されていたり……しかも、他人の家に勝手に現れて「留守は任せろ」と言うなど、永藤とヤシロのやっていることがほぼ同レベルだったりします。
永藤とヤシロの直接の絡みも描かれましたし、そこでも何だか同等な様子です。永藤家の肉屋にしばしばヤシロが客として訪れていることは触れられていましたが、直接の絡みは初めてだったような。
変わり者のことを「宇宙人」と表現することがありますが、(多分)本物の宇宙人と同等である辺りが永藤の凄さ(?)です。

他作品とのクロスオーバーとしては、『クロクロクロック』の岩谷老人が登場。
カナは陶芸家見習いを続けているようで何よりです。

 ~~~

本作『安達としまむら』は先月から『ガンガンONLINE』にてコミカライズも開始。月1更新です。

 安達としまむら - 漫画 - ガンガンONLINE

どういうわけか4コマ風の均一なコマ割りですが、別に内容面で4コマごとにオチが付いているわけではありません。
むしろ、台詞やモノローグまで、かなり原作に忠実なのではないかと思います。

安達としまむら コミカライズ

最近は日常4コマ漫画が増えたこともあり、このコマ割りが日常の単調な流れを象徴する、というイメージができているのかも知れませんが……

注目は原作イラストで描かれることの少ないサブキャラのデザイン。2話にして日野と永藤が登場しました。
こちらが日野↓ 活発でリアクション豊富なイメージが伝わります。

日野

永藤↓ 見た目は理知的とあるのですが、漫画ではぼんやりしたキャラの印象が若干優先しているのかも知れません。
ただ、原作では眼鏡をかけた姿が描かれていなかったので有難いですね。

永藤

なお原作イラストでの日野はこんな感じ↓

安達としまむら1巻 日野
 (『安達としまむら』、p. 73)

この1巻カラー口絵の右端が永藤↓

安達としまむら1巻 カラオケ

あとはこんなところでしょうか↓ 向かって左の胸が大きい方が永藤です。

安達としまむら4巻 日野と永藤
 (『安達としまむら 4』、p. 223)

髪型などの点で原作イラストの基本は押さえつつ、各キャラのイメージを出すためのアレンジも窺えて、良いコミカライズです。
そして、漫画だと(日野が小さいという)身長差もよく伝わるのがいいですね。

 ~~~

作者の入間人間氏は、今月下旬にはメディアワークス文庫から『デッドエンド 死に戻りの剣客』を刊行予定、さらに7月には『いもーとらいふ』の単行本化も決まっています。
いずれも『電撃文庫MAGAZINE』で一部は読んでいた作品で良かっただけに、楽しみです。

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幽霊がどんなものか誰が決めた

子供時代に出会った想い出の作品というのはあるものです。
しかも児童文学の良作というのは、実際今読んでも良いものだと思うことがしばしばで……

色々ありますが、小学校の教室の「学級文庫」で読んだ想い出深い作品の一つが、山中恒『ボーイフレンドはエッチなゆうれい』でした。



本作の主人公は小学4年生の女の子・八重垣チカ
3年生の頃から女子のリーダー格である佐藤ユリにいじめられており、4年生に進級してもユリと同じクラスになって憂鬱な思いでした。ところが不思議な男の子が現れ、彼女を守ってくれるようになる……というお話です。

今読むと、まず目次を見て「あれ、このエピソードが最後だった?」と思うくらい、最後は急な幕切れという印象はあります。
ただ、痛快で楽しい話なのは間違いありません。

3回の窓から飛び出して姿を消すなどの「ゆうれい」と思しき男の子の挙動に青ざめていたチカですが、彼が学習塾の勧誘をしていたお姉さんのスカートをめくるなどエッチでいたずら好きな子と知ると何だかおかしくなって、急に親近感を抱いて彼と普通に関わるようになる辺りなど、微笑ましくなります。やっぱり「子供らしさ」というのは強いですね。その子がこの世のものかどうかすらどうでもよくなる力があります。
主人公のチカも、真面目で聡明ないい子で、無口が愛想がなく、今まではいじめっ子に迫られると泣いて顔を伏せていたとありますが、「四年生になったら、もう泣くことだけはやめようと思っていた」(p. 10)とあり、なかなか強気に言い返しているところもあって、好感が持てます。

そして、謎のでべそネタ推し。
目次からして、「むかし、先生もでべそだった」という章タイトルがあって、「それがそんな重大な話題なのか」と意表を衝かれます。
自分のでべそを受け入れて大切にしているところも、チカに芯の強さを感じる所以でしょうか。

何より、「ゆうれい」の男の子がいじめっ子をやりこめるところが痛快です。
冒頭、本文の始まる前にに「ひとをのろわば、穴ふたつ」「いじめっ子のユリには、ふたつどころか、たくさんの穴ぼこがまちかまえています」(p. 3)とあって、やはりそこに主眼がある作品なのでしょう。

ついでに、普段はネコにしか話しかけないけれど、厳しく出ると怖いお祖母ちゃんがまた名キャラだったり。

さて――若干のネタバレと言えばネタバレですが、本作の何とも不思議なところは、件の男の子が「チカのお父さん(今も健在です)の子供の頃の幽霊」だという話。
しかもチカ自身、当初「あんなにはっきり、ものをいうなんて、おかしいわ。ふつう、ゆうれいっていうのは、夜、くらいところに、じとおっと立っているだけのはずなんだけど……」(p. 25)と考えている場面はあれど、「お父さんは子供の時に死んだわけじゃないのに、ゆうれいになるはずがない」という疑問を抱いている節はありません。
しかも、本人が明言するわけではないまま、男の子の正体についてかくのごとき推論に至っていく辺りが、また何とも不思議。

何やら「源頼朝公3歳の時の髑髏」を思わせる話ですが、よく考えてみると、死んだ人間のみが幽霊になるのだと誰が決めたのか。
生き霊というのもありますし(※)。
そもそもよく見ると、本作における「ゆうれい」という表現自体、神出鬼没である、他人には見えない、もちろんどこにも在籍していないetc... の特性を持った存在を指した仮の名称です。
そこに「幽霊とはこういうものであるはず」という固定観念を押し付けることが、多分筋違いなのでしょう。

「その世界で“そういうもの”として成立している事柄をそれとして受け入れて読むこと」をこの作品から学んだような気もします(少し大袈裟ですが)。

※ 鳥山石燕『画図百鬼夜行』では、「生霊」「死霊」「幽霊」の三者を区別しているものの、ただやはり「幽霊」はやはり死者の霊であろうと思われますが。

ちなみにさらなる余談ながら、担任の小林先生(中年男性)が昔は中川姓で「結婚して姓が変わったのかもしれない」という箇所も、女の方が改姓するのが当たり前だと思っていた子供時代にはなかなか難しかったり(私が無知だっただけか)。そこを理解するチカはやはり聡明な子です。

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エリートの家と生きる資格も認められなかった子――『アサシンズプライド 2 暗殺教師と女王選抜戦』

さて、今回取り上げるライトノベルはこちら、『アサシンズプライド』の2巻です。



 (前巻の記事

今回、ヒロインのメリダたちが通うマナ能力者養成学校・聖フリーデスウィーデ女学院では、ライバル校である聖ドートリッシュ女学園の生徒たちを迎えて、「ルナ・リュミエール選抜戦」という対抗戦を行います。
しかし、――前巻ラストで前振りがあった通り――クーファの背信を疑った上司から、メリダの調査を命じられたエージェントが閉鎖された学内に侵入。さらにどうしたことか、メリダは従姉妹のエリーゼと共に、「ルナ・リュミエール選抜戦」の候補者に仕立てられてしまいます。

他校を迎えて、生徒中から選ばれた代表者が競い合う対抗戦、しかも本来は選ばれるはずもない主人公(本作の場合はヒロインですが)が代表に仕立てられてしまう――となると、『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』を思い出しますが、魔法学校ものらしい展開と言えましょうか。
ただ、候補者の「パートナー」として、生徒ではなく教師役のクーファたちが「身内だから」と参戦するという反則気味の要素もありましたが……

この「ルナ・リュミエール選抜戦」の一つのポイントは、あくまで「競技の勝者」ではなく、観戦している両校の生徒たちの「投票」で票を集めた者が「ルナ・リュミエール」の栄冠を手にする、ということでしょう。
ですから、ただ勝てばいいわけではない、見る者を魅せるような品格等々も求められます。

そこに外敵の侵入という、競技の外の不穏な要素も関わるわけですが……
今回は前回と比べると、外敵との戦いやそこでの主人公クーファの活躍は少なめでした。
そもそも、「敵」の仕業にしては何のメリットがあるのか分からないことや妙にしょうもないこともありますし、いかにも怪しい奴は怪しすぎて多分真犯人ではないだろうと予想できますので、複数の思惑が絡まって複雑なことになっているのは読めるのですが……その辺の展開は、まずまずの手腕だったのではないでしょうか。

そんな中で山場となるのは、メリダと従姉妹のエリーゼの関係、二人の対立と和解でしょう。
エリーゼは気質的にはひどく恐がりで、幼い頃にはいつもメリダに守られていたような娘ですが、彼女がマナ能力に覚醒し、他方でマナ能力に目覚めないメリダが「無能才女」と蔑まれるようになってからは状況が変化、アンジェル家の主家と分家の政争もあり、いささか疎遠になっていました。今でも、本来アンジェル家の血を引く者は皆「聖騎士(パラディン)」という上位位階のマナ能力を持ち、エリーゼもその一人であるのに対し、メリダのマナはクーファから与えられたもの(位階は「サムライ」で、上位ではない)なので、基本的な力にはかなりの差があります。
そんな現状に対し、口数の少ないエリーゼ本人の想いは――

さて、私は前巻の時に、ヒロインのメリダをヘレン・ケラーに喩えました。
もちろん、ヘレン・ケラーは「それがあるのが通常」とされる視力と聴力を持たなかったのに対し、メリダが持たなかったマナ能力は、本作の世界においても一部の人間だけが持っている能力です。
ただ、彼女の生家であるアンジェル家の人間は全員マナ能力を――それも「聖騎士(パラディン)」という特別な位階のそれを――「持っていて当たり前」という揺るがぬ前提があり、ないならば不義の子であるという疑惑までかけられているのですから、その点で彼女の扱いは不具に等しいのです。

そして、考えてみていただきたい。
もしもヘレン・ケラーが「見えず、聞こえずの子供など生きる価値もない」という扱いを受け、そんな彼女が生き残る道は「見えず、聞こえずであっても彼女は生きるに値する人間だ」と周囲に認めさせることにではなく、命懸けの改造手術で視力と聴力を得ることしかなかったとしたら――
本作はそんな話です。決して才能を持たざる者に希望を与える「努力の勝利」の話や心温まる素敵なお話ではないことはお分かりいただけるでしょう。

そんな境遇の彼女と、彼女を(真相は本人にも伏せて)自らの分身に改造したクーファのいささか歪な関係に対して、エリートとしての力を持ち、周囲から――しばしば過度な――期待をかけられながら、自身の気質や希望は必ずしもそれに合ってはいないエリーゼと、(自身の能力的にも、また周囲からの圧力によっても)必要なことを全て教えられるわけではない中で悩みながらやっている家庭教師ロゼッティ・プリケットの姿はむしろ真っ当な「教育現場」を感じさせ、親近感が湧きます。
実際、エリートにそうした悩みは付き物ではないでしょうか。

登場人物は平凡で、身近な存在である方が読者は感情移入しやすいのだ、と言い出したのは誰か。
それが本当かどうか、もはや詮索はしますまい(「凄い主人公」を描く作品も多いわけですが)。
ただ、仮にそうであったとしても、メリダのクーファの特異な関係を、単にメリダに才能がなかったという設定だけで「身近」なものだと思う気は、私には起こりません。それよりはエリートの苦悩の方がよほど親近感ある話です。

まあそれはさておき、今巻の印象では、ロゼッティ-エリーゼとクーファ-メリダに対比するならば、まだ描けることは多く残っているように感じました。そもそも、今回はエリーゼの我が儘を受け入れるような形で収まってしまいましたが、それがお互いの望む形であったのは単に結果オーライであって、エリーゼの成長はまた別問題として残されています。
まあ、エリーゼが――アンジェル家の娘としての責務から完全に逃げるつもりはない以上――これからエリートとしての責任を受け止めていくに当たって「甘えられるところ」を確保しておくことが意味を持つ、という可能性もありますが。

何より、“エリーゼは「騎士公爵アンジェル家の娘」として力を誇示するようなスタンドプレーを求められてきて連携が苦手、また家庭教師のロゼッティもずっと1人で戦ってきたのでそれを教えるのは苦手”という前回の設定は、今回特に話題になりませんでしたし。
チェスのような戦術を競う競技もあったのですが、あまり戦術そのものが問題にならなかっただけでなく、そもそもその競技でのエリーゼたちの戦いは描かれもしなかったのが残念。

とりあえず、次巻から2人が一緒にやっていくことが増えると思われるので、そこで対比として描けることもまだまだあるのではないか、と思われます。

前巻よりもクーファとロゼッティが――「家庭教師仲間」として――仲良くしている場面が多かったのは良かったですね。
クーファの人物像に関しては、そもそもメリダに簡単に絆されすぎだとか彼女のことに関してまるで親バカだとか色々気になる点はあるのですが、本家と分家の関係という上の方の政治的事情からただちにロゼッティをライバル視して大人げない態度を取るのも、引っ掛かっていた点でした。何だか「勝ち気な女の子とケンカする場面を入れるべし」という定型に乗っかっているだけのような気もして。
メリダとエリーゼが和解し、クーファとロゼッティの協力も増えることで、「異なるタイプの師」からの「別様な学び」を対比する機会もできるのではないか、と。いや、実際にどう転ぶかは分かりませんが。

それから最後に、本作の世界においてはマナ能力者の中に「聖騎士(パラディン)」「魔騎士(ディアボロス)」「竜騎士(ドラグーン)という三つの上位位階があり、これはそれぞれ特定の血筋だけに受け継がれています。
メリダたちのアンジェル家が「聖騎士」の家だったのですが、他二つの家の人間も今回前振り的に登場。メリダたちのライバル(候補)、というでしょうか。
もはや事態はアンジェル家のお家騒動に留まらず、これら三つの貴族家が関わって大きな政治的動きがあるようで……話を大きくする布石も出てきたので、次も楽しみにしておきましょう。


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T.Y.

Author:T.Y.
愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻卒業。
2012年4月より京都大学大学院。

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